旅人の気持ち


 西脇順三郎の「旅人かへらず」を読み返して確認してないから、嘘になってしまうかもしれないが、こうして冬枯れた木々の、それも立派な大木というわけでなく、細い小路の両側にひょろひょろと細い枝を絡ませているような、なんだろうかそうだな、大きさは山吹とかだろうか、背の低い木々の影が揺れている日溜りを見ていると、あの詩集を読んだときに自分に発生する感覚を思い出したから、だから西脇順三郎はこういった12月の散策で「旅人かへらず」につながる思いを得ていた、いや、得ていた、というより、いつのまにか得ることになっていた、のではないかな、とか根拠もなく思った次第であります。カメラマンというのは、よくない種族かもしれないが、そうではないようにも思える。
 12月の1日だったか2日だったかに新宿御苑に行ったときには銀杏やメタセコイアの葉には若干緑が残っていて、木々にとっては知ったことではないが、人間の奇妙な美的感覚、単純化とか模式的とか整理とかいう単語が使われそうな感覚からすると最高潮ではなかった。それで、その頂上に合わせるための情報は、いまはネット上で飛び交っているから、想像するにたぶん、7日とか8日あたりに、新宿御苑の紅葉は人間の奇妙な美的感覚的価値から測れば頂上を迎えたのだろうな、今日の新宿御苑は、先々週からも、それ以上だったろう先週からすれば「ぎょっとするほど」空いていた。穏やかでぜんぜん寒くなかった。今朝のテレビでは、だからネット上の情報も同じだろうけれど、今日は12月下旬並みの寒さになりますと言っていたから、それで出足がおおいにコントロールされたのかもしれない。第一すでに14日でそれが下旬並みに寒くなるって、たぶん平均気温に差があって、下旬の平均気温が今日の予想気温に合致しているからそう言うのだろうけれど、その差は本当に体感的にあるのかな。ま、そう言うんだろうからなくはないのだろうけれど、なくはない程度といえばそれだけのことだろう。
 なんて書いてきたが、人間の奇妙な美的感覚、ということを勝手に書いてしまったが、本当にそうなのか判らない。もう二十年かそこら前に、茅ヶ崎市文化会館で椎名誠氏が講演をしたときに、どこか比較的に未開な土地から戻ってきて玄関を入ると、文明社会には直線やきれいな円や円弧が支配していることにまず気が付く、なんて言っていた。いや、これだって私の記憶から引っ張り出しているから、氏が本当に「支配」などという単語を使ったかどうかわからない。たぶん、使っていない。
 カメラマンを見ていると、などと自分を枠外にしているのがそもそも不遜なのだが、カメラマンを見ていると、新宿御苑12月14日の目に映る無限の視点の光景から、そういう「人間の奇妙な美的感覚」に若干もしくは大変に合致するところを見出そうとして右往左往している。そんなのはよくない、ようにも思えるが、でもカメラマンではない人はほとんど誰もいない「新宿御苑の母と子の森(って名前だったかな?)」を歩いていると、それはすなわち上の写真の場所ですが、カメラマンすらいなくなったら、誰もこの少なくとも人間にとってとりあえず五感で感じられるこの場の雰囲気全体を誰も知らない、なのだからカメラマンは「よくなくない」かもしれない。
 いや、そもそも、よいとかよくないとか、何を持って「よい」とするかが曖昧だし、実際は書いていながら私がわかってない、未定義なのにそれっぽく書いているだけなのか。
 だからカメラマンであることはここにやってきた動機であったとしてもひとまず写真を撮ることを封印してこの雰囲気を五感を総動員して感じてみましょうか!など、今度はネイチャー・ガイドが言いそうなことを思ったりするわけ。それでもファインダーをのぞいてしまい、ついには、たかだか足元の木漏れ日なのに、プログラムモードから絞り優先にしてみたり、ピンの位置を中央から下の方に移動させてみたり、しゃらくさいことをやっている。
 あ、この文章を書き始めたときには、伊藤将太くんの写真展のことや、国立に町のことや、西荻窪のCD店のことや、あと鼬のことと、鎌鼬のことと、書きだす前の構想にそんなことがあったのに、何も書いていない。
 西脇順三郎がどういう光景を見ながら「旅人かへらず」を編み出したか、研究者なら知っているのかもしれないが、私にはわからないが、こんなんじゃないかと思ったということ。もし西脇じゃないにしても、当時の詩人がカメラを持っていたとすると、それはきっと小さな、いまの尺度で言えば「よくは写らない」フイルムカメラで、指先でちまちまと露出や距離を調整して、そうしているあいだに立ち止まっている数秒もしくは数十秒があって、見えにくいファインダーにおぼろな像を見て、ほっ、とため息をついて、それこそ落ちた枯葉が風でちょっと向きを買えるように「コソッ」という音をさせてシャッターがいろんな機械的連動機構を動かす起点となり、光が集められる、そういう場面が、浮かぶ。それは瞬間を撮っているのではなく、どこまでさかのぼるかわからないが、そこに至る時間を撮っていたのではないかな。