写真の加工


 上の写真が最後に色をいじった最終加工品だとすると・・・
 で、こんなことをしていて、だけど最終品がよいのかどうかが判らない。どの段階のものがよいのか?いやなに、普遍的によいのはこれです、というわけでもないのだろうが、少なくとも自分としては「これです」と言えないとおかしいと思うのだが。前日のブログに載せたのはこういうオリジナルからの加工ではなく、オリジナルからのプリントを接写したところにちょっとだけ加工を入れている。その差が画面にあるだろうか?作る過程としては昨日の方が写真という感じで、今日の方が加工による邪道みたいな感じもあるのだが。出来上がったデータを比べるとたいした違いはないようだ。

 以下、2月2日に追記)
 一番の違いは、フイルムであっても、デジタルカメラのデータであっても、そこから写真を作るときにこんなに甚だしいトリミングはしないってことだろう。この元データが1500万画素のDSLRで撮影している。1/29ブログに載せた「はるか夏」の写真と同じ範囲を元データからトリミングすると、1/9くらいの面積しかなさそうだ。そうすると167万画素しかないからHDテレビよりも画素数が少ない。そんなトリミングは、フイルムから引き延ばすにしても、デジタルデータからPC画面上で切り出すにしても、しない。何故にしないのかと言えば、トリミングをするという行為は、なんちゅうか要するに「劣る」行為だと思うからだ。例えば炭火焼よりガスの方がちょっと劣っているとか、天然モノより養殖モノがちょっと劣っているとか。ちょっと持ってきた比喩が違う気もするが、写真において、トリミングをしないで撮影時にフレーミングに集中して、後からなにもせずとも絶妙の構図と決定的瞬間を同時にモノにしていることこそ、それが達人の技なのである、といった風な考え方はある。ノートリの美学、ってところか。私が高校写真部にいたころなんて、そんなこだわりを言う人も大勢いたかもしれない。いまはデジカメの画素数が上がってきたこともあり、トリミングをすることへの抵抗は減っているかもしれない。いや、待てよ。これはちょっと話の筋に沿ってない。画素数とか解像はさておき、撮る一瞬に全てを決めることこそ潔い写真のあるべき姿だ、といった思想のようなことと、技術的に画素数や解像度が必要十分を超えているから、そこを上手く使ってあとからトリミングをしても(以前のように画質劣化がないから)オッケーになりましたという考え方は、まさに「思想」か「考え方」のような違いではないか。私自身は、そういう思想に強く引きこまれてはいなかったけれど、フイルムから自分で伸ばしていたときに、いつのまにか、日本に生まれると主食はご飯で決まっているように、当たり前にトリミングはしなかった。でもデジタルになりいつしか若干のトリミングは平気でするようになった。思想を合理的な考え方が駆逐していった。
 しかし、パソコン上でトリミングをして写真を作るときにはせいぜい90%か80%の画素までで、こんな風に1/9までしてしまうということは有り得ない。
 ところが、この「はるか夏」の写真は、データを前にしてあれこれ考えたわけではなかった。
 そこに既に元データからのプリントがあって、そのプリントはいまここに印刷ほやほやであるわけでもなくて、2010年の8月か9月にLサイズにプリントして、その月の須田一政写真塾に持って行き、持って行った数百枚のプリントを須田さんが次々にめくって、めくった瞬間に言葉ではない何かの判断回路で、言葉以前の感覚で、須田さんの脳というか心にある「閾値」を超えた感情が起きたことにより「選ばれた」数十枚のプリントの束の中にあった。それから三年半経った2014年1月のある冬の平日の夜、私が北関東のU市の小さなアパートでコタツに入ったまま、見返していて、そんな写真を自分が撮ったこともかすかに覚えているだけだったり、ときにはこの目の前に現れた写真を自分が撮ったということを全く忘れていて、だから、私は撮影者の度合が少なく、純粋鑑賞者に近い感じでそれらの写真を見ていた。すなわちいま目の前にある写真は、2010年夏に撮られたとは言え、2014年の冬に私が見ている目の前の「光景」を形成する主たるモノであった。ほかにはコタツの上に置かれた紙にここ何日かの血圧の測定値がメモしてあったり、さっき食べた駅ビルで買ってきた500円の握り寿司のパックとか、読むつもりでコタツの上に積んである保坂和志の「未明の闘争」と、長嶋有の「問いのない答え」と、読みかけの堀江敏幸のエッセイの文庫本が光景の中に属していた。本は全て書店カバーが掛かっていて、堀江敏幸の本だけはタイトルを忘れている。書店のカバーは長嶋有堀江敏幸八重洲ブックセンターで、保坂和志の本はいま書店名を思い出せない別の書店のだった。
 そういう光景の中にLサイズのプリントとして目の前にあって、冬であって、コタツに入っている。以上のような全体の時の流れの結果として、そのとき私は目の前まで接写が出来る700万画素の、もうだいぶ古いパワーショットA620というコンデジをマクロモードにして、写真の表面で反射する蛍光灯の光がなるべく入らないように注意しながら、2010年にプリントされた写真にカメラを近づけて行った。すると今と比べると異様に小さい、当時はみんなその大きさだったデジカメの液晶に、いまこのカメラのCCDが捕らえられる画像はこういうことですよ、という映像が出ていて、そこを見ていると、そのトリミングが1/9に及んでいることなどは気にもならない。そうしていま私は、目の前にある光景からスナップ写真を撮るのと同じように、目の前にある光景の主たる構成要素である三年半前に撮られプリントされ選ばれた写真に肉薄して、スナップ撮影を行なった。そして元データだと167万画素相当の範囲を700万画素のCCDで撮った。

 以上のようにして撮影されて出来た「はるか夏」の写真、2014年の1月29日のブログに使った写真は、だから私にとってはトリミングをした写真ではなく、一枚のスナップ写真なのだ。だから1/9までトリミングしたことなどは気付きもせずにいて、それに何の抵抗感もない。
 しかし、この上の写真のように、そうして撮られた一枚のスナップ写真を、元データからも類似的に作っていくことが出来た。そうしてその類似的操作の結果の上の写真と、1/29のブログに載せた写真は、概ね同じである。同じということは、新たなスナップ写真としてとらえるのではなく、元データを「いじって」、トリミングや加工をして作って行ってもいいのだから、PCの前に座って、なにか素材となる写真をもとにそういう操作をすることにより、写真を作りこめばいいじゃないか。三年半などの「熟成期間」を置かず、1/9のトリミングへの抵抗感など持たず、どんどんとやればいいじゃないか、と言うことになるが、そう上手くは行かない。
 須田さんがデジカメを使わない理由として、撮ったらすぐに(液晶で)確認できてしまうことがつまらない、フイルムは撮ってから写真が出来るまでのあいだに妄想できる時間があり、それが大事だから、とおっしゃる。時間を遡って妄想が撮影結果を変えることは出来ないが、その次の写真を撮るときに、妄想したという事実が、何かに寄与し反映することは勿論あるはずだ。


これがオリジナル


切り出してから、自動レベル調整


輪郭強調とかレイヤーかけてガウスぼかしとかノイズ付加とか


周辺光量落としてます