耳を澄ませて見る写真

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70年代後半か80年代前半に、その写真展をどこでやっていたのか覚えていないが、二階のあるギャラリーだった、高校時代の写真部仲間が一緒だったのではなかったかな、そこにウィン・バロックのよく知られている「森の中の少女」の大型プリントを見た。あるいは、たぶん高知県で、ではなんで高知県に行ったのかが全く分からないのだけれど、もう少し後、90年代かな、アンセル・アダムスの「フェルナンデスの月の出」の大型プリントを見た。さらには、同じころに、新宿辺りでマーガレット・バーク・ホワイトの、発電所(だったかな?)を撮ったプリントを見た。最初にバロックを見たときに大判フイルムで撮影された写真のプリントの大きく引き伸ばされたのちも緻密な解像度が維持をされている、そういうプリントを目の当たりにしてとても驚いたものだ。その驚きがアダムスの写真を見たときも、バーク・ホワイトの写真を見たときも、同じように、感動した。しかしそのうちに、大判フイルムの凄さを知って、慣れて、そういうもんだということを覚えて、驚かなくなっていたと思う。よくないですね。ずっと驚き続けられた方が、人生(笑)楽しいだろうに。だいたい四十代になると近視眼は眼鏡をかけて無限距離への合焦を保証したうえで、筋肉を動かして合焦可能にできる最至近距離がどんどん遠くなり始める。要は老眼です。そのうちにこの距離の話だけでなくなってきて、合焦した状態で得られる解像度が低下するんですね。ここに高ISO限界も落ちてきます。そうなると、大判フイルムで撮影されて大きくプリントされた写真作品を目の前にしても、その凄さを見わけられなくなる。眼鏡を外して、ぐぐっと顔をプリントに接近して細部を注視すると、ほーっ!すごいここまで解像しているぞ!とやっとわかるのだ。まったく情けない状態でございます。

本日、三好耕三写真展「写真」を見てきました。三好耕三のON THE ROADというUSAの広大な景色や、人々の暮らしの断片を大判フイルムでとらえた写真を見たのが、これまたいつかはよくわからないけれど、90年代にフォト・ギャラリー・インターナショナル(PGI)だった気がする。田町駅から少し歩いたところに、いまもギャラリーはあるのだろうか。須田一政「雀島」とか、古くは今道子「EAT」などもPGIで見た気がするな。今日の展示はいろいろなシリーズから選ばれていて、作家のダイジェストという感じもしたが、そのなかにON THE ROAD AGAINというタイトルがつけられた写真が何枚かあった。眼鏡を外して、プリントにぐぐっと近づいてみる。すると、ほら、その通り、そこに写っている(画面全体に対してずいぶん)小さな人の表情が見て取れたりするのだった。バロックやアダムスのプリントに驚いたことを懐かしんで、でもいまは驚かないのは良くないですね。

写真の、こうして写っている視覚に感じる情報である解像度に、余裕があること。それから黒から白へのグラデーションが、豊かにゆるやかに大河の流れのようにたゆとうていること。すると大型のモノクロプリントからは、視覚だけでなく、なにか皮膚感覚(触覚)や、さらに嗅覚や、ときには聴覚にも、その場で感じられるだろうリアルが迫ってくる気がする。だから言い換えると例えば「耳を澄ませて」見る写真なのかもしれない。

上の写真はここに書いたこととはとくに関係ないです。