無題


 銀メダルを取った複合の渡部選手(わたべの漢字はこれであってる?)が、試合後のインタビューで、
「(前回のオリンピックまでは)自分の実力と発言にギャップがあったが、今回は(そのギャップがなく)うまくいけば勝てるので、チャレンジを続けたい」
と言っていた。(かっこ)内は私の補則ですが、間違った補則ではないと思う。それを聞いて思ったことは二つ。ひとつは、そうか、代表選手たちは、自分のその試合に臨むときの準備の状況も含めたリアルタイムで動いている実力というか調子が、オリンピックのその試合で、みんな(マスコミや国民?)の期待する結果に合致する可能性が充分なのか、五分五分なのか、運が味方すれば可能性がゼロではないのか、まずあり得ないのか、もちろんのこと冷静にわかっていて、仮にその可能性が低くても、マスコミ向けというか、もう自動的に言わなければならないことは、みんなの期待しているメダルを「絶対に取ります」と言うことであって、大変だなぁ、わかっているけどやっぱそういう無理をしているってこと。もうひとつは、実力があってメダル候補と言われている、日本のA選手と、どこぞのB選手と、また別の国のC選手と、さらにあっちの国のD選手と、それぞれの国の期待を背負っている「メダル候補者」は、その時々によって、三人よりはるかに多いという、これまた当たり前のことで、もちろんときには突出した三人がいて、運がどう転んでもその三人を抜けないという場合もあるかもしれないのだが。メダル候補者は、一つの競技に五人とか、八人とか、十人とか、もっといて、その中で三番までに入るには「チャレンジすることだ」と、渡部選手は言ったのだが、ではチャレンジって何かな?日本語だと挑戦。では、挑戦とは?ことバンクによれば「困難や新しいことに立ち向かうこと」とあった。では、試合における困難や新しいことってのは何かな?練習で50%の成功確率だった業があったとして、それを本番で成功させることとか、数字で現される結果を可能性がある最高な結果に繋げるとかなのか。
 もしここに50%の確率で何かの動作を行えるロボットがあって、彼には意思はない。そのロボットにはだから、練習も本番もなくて、でも回りで見ている人が「この回が本番」と決めていて、それでその決められた本番に成功したら、それはチャレンジの結果ではなくて偶然の結果だ。では、偶然の結果ではなくチャレンジの結果で、本番に成功(勝利)するということに繋がるチャレンジを構成する中身のことって何かな。
 いろんなエピソードがあって、例えば、いざ本番の直前にふと客席に誰々の顔が見えてそしたらふっと肩の力が抜けた、ということがチャレンジの中身で最大のポイントだったりもするだろう。でも「偶然」に分類される、結果を左右する向き不向きの「要因」が、偶然にA選手に有利でB選手に不利なんてこともままあるだろう。
 ふっと肩の力が抜けることができた誰かの顔を見つけられなかった選手は、チャレンジが足りなかったのか?いや、違うな、誰かの顔を見つけられたというのは、どちらかと言えば偶然の要素なのだろうな。
 そこで、もう一度、偶然ではなくて、それによりトップの五人とか八人とか十人のなかから、トップスリーに至る、渡部選手の言うところのチャレンジとはどういうことかを考える。体調管理へのチャレンジ、ベストコンディションへのチャレンジ、みたいな時間をかけての準備万端整え、ピークを揃えるようなこともチャレンジであろう。
 でも、彼の言っているのは、トップの実力のある五人とか八人とか十人になるに至った自分の持つ業(あるいは技)の全てを遺憾なく発揮出来たか出来なかったかが分かれ目で、それが出来るためのチャレンジって、多分に精神的なもの(本番でこそ力を発揮できる精神)というところへ帰結するしかないのかもしれない。そしてそれは訓練である程度は「出来るように」なるかもしれないが、多分に持って生まれた性格や、小さいころに育った環境なんかで決まっているから、彼の言う「チャレンジ」を成功させることが実はいちばん難しいことなのだろう。
 ところで、オリンピックに出ている自分ではない他人である代表選手を応援するところの常識的範囲みたいなことがあって、それを越えてもう自分の何かを選手に託してしまい、結果を重視し、期待に反する結果しか得られなかったときに、選手にがっかりしたり、怒ったり、罵声を浴びせたり。その反対に良い結果のときには、自分のことのように嬉しくて、幸せで、楽しくて、となるのは、どうなのよ。他人に自分の気持ちをそこまで左右させられていいのかな。と、よく思ったりする。
 ま、それはさておき、平野選手や平岡選手や渡部選手が(渡部選手の言を借りれば)チャレンジが上手く行って、それに補足すると、偶然の要素も足を引っ張る方向にはならずに、三位以内にはいるまで、すなわち日本選手がメダルを初めて取るまで、テレビのバラエティみたいな番組で、芸能人のにわか司会者やらにわかコメンテーター達から滲み出ていた焦燥感は何だろうと思った。あの方たちは、仕事柄、視聴者を楽しませて、それを評価されて仕事にありついたり視聴率を稼いだりしているから、自分ではない他人である選手に託している手が出せない状況で、その結果が三位以内にならないと番組を楽しいものにできない、ということから選手にたいして寛容でいられないのかな。
 男子500メーターのスピードスケートで、チャレンジが奏功せずに、それでも日本選手は5位と6位という素晴らしい結果だった競技の翌朝、解説者の元代表選手でメダリストの堀井学が、某芸能人に「なぜ日本選手はオランダ選手に負けたのか?」と聞かれ「勝ちたいというと気持ちのところで負けていた」といっとようなことを、答えに窮して窮して、やっとのこと言った。それを聞いた某芸能人は、その答えが気に入らなかったらしく、即ち、これはバラエティ番組としてこういう場合に用意されたあるべき答えを逸脱していたらしく「私は勝ちたいという意思の強さで日本選手が負けてたなどと思わない、そんなこと言っちゃダメだ、頼むよ堀井さん」と応答をした。堀井学は、その前夜というか深夜にライブでの解説にも出ていた。日本選手の結果が三位以内にならなかったときに、インタビューに答える選手の様子が映ったあとに、スタジオの堀井学は涙目(みたいに見えた)で「いま選手の心の中は悔しくて悔しくてどうしようもない状態ですから、(インタビューにちゃんと答えられなかったり、ぶっきらぼうだったとしても)勘弁してやってください」と言っていた。
 渡部選手の言ったチャレンジという単語を、結局は精神面での自己のコントロールがちゃんと出来て、自分の持っている業(技)を出し切るというチャレンジ、ということだと解釈し、その精神面の部分を堀井が「勝ちたいという気持ちの強さ」という表現というか言い方をしたとすると、渡部の言ったことと堀井が言ったことは同じような意味合いだったのではないかと思った。堀井学こそが、やはり元代表選手として、三位以内に入れなかった、それも実力と発言にずれがないトップの数人にいながら入れなかった選手達の悔しさを、一番理解していたと思う。
 直前練習で怪我をした伊藤選手や、とうとう三位以内にならなかった上村選手や、確率的には三位以内の可能性が極めて高く素人目にはどこにもミスがないように見えたのに、それこそ偶然の不利もあったのかもしれない高梨選手を、いくらその悔しさを共有しようと思っても、結局はそれより葛西選手のガッツポーズや涙に感動し、そっちが記憶に残るのだろう。
 テレビで放送され、世界的な舞台や、国内の人気プロスポーツに属し、期待を背負い、結果を求められるのは、あるいは、他人の出す結果に期待して結果を求めるのは、どういうことかと、オリンピックの度にタラタラダラダラこんな風に考えてしまう。スポーツということがあること自体が不思議。人類という動物が、繁栄し子孫を残すために本能として誰もが持っている競争心とか仲間意識とかが、スポーツの根底にあるから、多くの人がそれに熱狂するように出来ているのだろうが、スポーツの見方にも品位みたいなことがあってもいいんじゃないか。