銀河


 6時半にJR東神奈川駅待ち合わせで会社の友人と(私を入れて)3名で銀河楼という中華料理屋さんに行った。一人が30分ほど遅れることになり、6時半に改札で合流した私とI君で店に向かったが、駅を出て仲木戸駅(こっちは京急線の駅)大通り(第一京浜?それとも第二京浜かな?)に出たら左に曲がらなければいけないところを右に曲がってしまい、そのまま10分くらい歩いても店が見つからず、その時点になってやっとスマホで地図を見たら、間違っていたことに気が付いた。また出た!老人性思い込み!
 ひと月かふた月まえに、今日とは別のメンバーで、その中にいたHさんの推薦で新子安の中華料理屋に行った。そのとき新子安のあたりの街を写真に撮ってみたくなり、その一週間後くらいに、新子安で途中下車して横浜まで歩いてみた。(このブログにも書いてありますが、何月何日か面倒だから調べてない)
 そのときに仲木戸駅近くの吉田飯店という中華料理屋がにぎわっているように見えた。その吉田飯店を通り越すまえに銀河楼は既に通り越していて、銀河という名前が覚えやすかったから、なにかのきっかけがあれば思い出す程度にインプットされていたと思われる。だけど、気になったのは吉田飯店だった。
 帰宅後にだか、帰宅途中の電車の中でだか、吉田飯店をネット検索したら、なかなか評判が良さ気で行ってみたくなったのだが、待てよ!同じ地域のほかの中華料理店の情報もリンクされていたり、評価点別に並べ替えたりできるので、そんなことをしつつ画面をいじっていたら、銀河楼がちょっとだけ吉田飯店より、私の見ていたそのウェブサイトでは上位の点になっていた。ま、こんな点数に頼ってどうなのよ、ということはもちろんあるわけだが、それはさておき。すなわち、このネット検索での時間の流れは、吉田飯店→銀河楼という順序だった。一方、新子安から横浜まで歩いたときには、銀河楼→吉田飯店と現れたわけだが、銀河楼は上記のとおり、歩いているときにはあまりよくは覚えないまま通り過ぎ、すなわち上記のように何かのきっかけがあれば「そういえば銀河って単語の店が確かにあったあった」と思い出すような覚え方で通り過ぎ、そのあとに吉田飯店はぐぐぐっと惹かれていた。
 これは自分が間違えた理由を自分なりに分析してこういうことかな?と思っただけのことだが、ネット検索の時間順序「吉田飯店→銀河楼」の記憶が、実際に登場した店の順序である「銀河楼(ただし上記のとおりのあいまいな覚え方)→吉田飯店」を、ひっくり返してしまい、場所の順序も新子安から横浜に向かうときに現れる順序として「吉田飯店→銀河楼」だと『正しい情報をすり替えて』間違えてしまったのではなかろうか。ふーむ、こういう「ミス」は若い頃にはなかった気がするのは、上記のような曖昧な覚え方ではなくて、否応なく、覚えなくてもいいことまで自動的に記憶してしまうやっかいな記憶力があったからなのかもしれない。例えば、好きだっただけでなく嫌いだった曲も、若いころの曲は覚えているから、そうなのではないかな。
 言い訳はさておき、というわけで腰痛気味のI君を寒い中引っ張りまわして、本当は5分で着くところを25分くらい歩いてやっと店に着いた。ごめんなさい。

 激辛麻婆豆腐、激辛の中にもさまざまな味(その中には正反対の甘さも含まれる)が隠されていて、こんなに全部は食べられないよと思ったのに、いつのまにか三人で平らげてしまっていた。ほかにも海鮮の包み揚げ(だったかな)とか海老団子(だったかな)とか、鳥から揚げなど何品か食べる。さっぱりした味付けのものが多いようでどんどん食べられるのだった。三人だと頼める料理が若干少なくてあれもこれも食べたいのに、満腹になってしまう。この三人はもう十年あるいは十五年まえにはもっと頻繁に何かを食べに行っていた六人くらいの仲間の半分である。次回は六人復活を目指そうか。

 しかし、どうも。なんか、どうでもいいことをずらずら書いていて、読んでいてもまったくもって面白くないですね。

 上の写真は東神奈川の中華料理店とは無関係で、神奈川県平塚市と中郡大磯町のあいだあたりにある相模湾を見渡せる「湘南平」から撮った写真の接写です。

 ところで銀河という字をこのブログでこうして書いて(打って)いたら、いつのまにやらタイガースの「シルビー・マイ・ラブ」というフレーズのある曲が、頭の中で流れていることに気が付いた。でもって、いま調べてみたら、ほらね、この曲は「銀河のロマンス」っていうタイトルだった。たぶん私が小学校の五年か六年生だったころのヒット曲で、好き嫌い関係なく、「いやおうなく覚えている」からこうして自然に出てきているのだった。

 なんて書いていたら、こんどは小学校六年のころある時期仲が良かったM橋くんとこの湘南平から尾根をたどって写真の向こうに広がっている平塚の市街地まで歩いたことがあったのを思い出したりする。記憶が記憶を呼んでいく。