中華街からの帰り道

 久しぶりに横浜中華街で夕食を食べた。コロナ前には年に一度くらいは行っていただろうか。2005年か2006年頃に、当時参加していた須田一政写真塾のグループ展で、横浜中華街で撮った写真で展示をする、というのがあり、6×6のミノルタオートコード(二眼レフフイルムカメラ)と、当時まだ300万画素だったデジタルカメラを持って何回か中華街通いをしたこともあった。あるいは配属されていた会社の部署が東横線都立大学駅にあった頃に、なぜだか同僚としょっちゅう横浜中華街へ行っていた気がする。安記、桃源屯、大福林、海南飯店、安楽園、山東海員閣、等々、当時行った店は、大型有名店ではなくてこんな風な小さな店を選んでいたと思う。都立大学からは30分くらいはかかるだろうから、特に近かったわけでもないけれど、例えば中華街B級グルメ探訪のような本があって中華街へ行くのが流行っていたんじゃないかな。今もある店もあればもう閉店した店もあるようだ。もっと前、1980年代中頃に、親戚の会食が中華街のとある店で行われたときに、ちょうど日本シリーズのシーズンで、私は当時応援していた広島カープが勝ったか負けたかが気になり、ときどき小さな携帯ラジオで途中経過を聴いたものだった。たしか北別府投手が好投してもしても、日本シリーズでは勝ちが付かない、そんな試合だった。さらにさらに昔、初めて父に連れられて中華街に来たときに「この町は昼間の人通りが多い時間帯は良いが、そうでない夜や深夜や早朝には近寄るな」と父に言われたことがあった。父はこの町をどう捉えていたのだろうか?あるいは本当にその頃、1960年代だと思う、中華街は物騒な町だったのだろうか。コロナ禍もあり、3年?4年?くらい中華街には行っていなかったが、一見きらびやかなネオンサインを掲げた料理店がずらーっと並ぶのは変わらなくても、けっこう店が様変わりしているのだった。

 昔のイメージでは不愛想でつっけんどんな店員さん(大抵は中国または台湾人の女性)がメニューを持ってきて、すぐに注文を聞くから「ちょっと待って考えるから」と言うと、露骨にめんどうな顔をされたりした(もちろんごく一部の店のことだっただろう)。注文が決まって、すいませーん、って店員を呼ぶと、今度はすぐに聞きにこなかったり。頼むと、もう追加注文などするなよってことだったのか、メニューはすぐに持って行ってしまいテーブルに残してくれない。料理は量が多く、脂ぎった炒め物は胃もたれしそうに見えたが、いざ食べるととても美味しくて、ついつい食べ過ぎるのだった。あるいは頃合いを見て次の料理を持ってくるなんて発想はなくて、あっという間に出来た順に頼んだものが置かれた。今日食べたコースはヘルシーでさっぱり薄味で、どの料理も美味しくて、料理の出されるタイミングも絶妙で、4年か5年ぶりであった元同僚と、ゆっくりおよそ2時間半、食べながらおしゃべりが出来た。今日食べた店は菜香新館。

 帰り道は中華街の大通りを抜けてから、だんだん閑散としてくる道をJR石川町駅まで歩く。これも何十年も前からそうして帰って来た。この繁華街から「だんだん」店が減り人通りも減り暗くなっていき、満腹で宴が終わり、解散してあとは帰るだけという気分。それは今日も、むかしと全然変わらない。この夜風の吹く、石川町駅までの道が、宴の余韻と少しの寂しさを纏った夜へのプレリュードなのだった。それがむかしと全然変わらないのがいいな。途中ウインドジャマーというライブをやるジャズ喫茶/バーの前を通る。いままで三回くらいはその店に入り、カクテルを飲みながら、ジャズのスタンダードを聴いたことがある。ウインドジャマーは船の種類をさすらしい。

 写真はその駅までの帰り道で撮りました。ただのタクシー。