春の夜の散歩


 夜、デジタル一眼レフカメラを持って自転車で出かける。最近のカメラの高感度化と手振れ補正機能によって、相当暗くても手持ち撮影が可能になったから、同じように桜の季節の夜の散歩に、数年前までは三脚を持って行ったが、今年はもう三脚は持たずに出る。しかし結果としてはやはり三脚にカメラをつけて確実にぶれないようにして、ある程度絞り込んで被写界深度を稼いで、という撮影をしたときの方がやはり写真としては安心して見て取れる。ISO6400ならまだしも12800でかつ開放の薄い深度だとなんだかやはりぱっとしない。
 下のような住宅地の中にあるまだ若々しくたくさんの花を付けているソメイヨシノに偶然出会うと息を飲む。はっとする。並木になっているわけでもなく、あたりはアパートばかりで素っ気ない風景で、それは市井の人のような市井の桜で、だから市井の人のように、その桜を生活圏に置いている人たちからは愛されている。
 子供の頃に読んだにっぽん昔話で、一年に一度だけ絢爛豪華なお祭りの日にたくさんの御供え物をいただくお地蔵様と、貧しい村人たちにわずかづつだが毎日ちょっとだけの御供え物をいただくお地蔵様が、ある日、なにかの競技、相撲とかかな、をするという話があった(気がする)。この桜が後者のお地蔵様のように、というのもちょっと比喩が強引な気もするが・・・、アパートの住人を含む近所の人たちの暮らしの中で、いつものようにそこにあって、いつものようにそこに咲いて、いつものように視界の片隅に認められて、いつものように桜の方が人々のこころになにかを働きかけていて、そうあればどんな有名な樹齢何百年の一本桜より、いいじゃないか。
 なんていう道徳的なことを考えるのは、あとになってからに過ぎず、本当は見た瞬間に息を飲んだそのときの気持ちがいいんだよな。

 しかし、なにか「物語が始まる」って感じの上の写真の方も、撮って液晶に表示されたそのときにすぐに、おおいいじゃんと思った。まだ目の前にリアルにその場があるのに、その場への視線を放棄して即刻液晶に表示された虚像たる画像を見て、いいと思うのが、画像として獲得した満足感のようなところが含まれているわけで、よくよく考えるとなんだかえげつないような嫌悪を感じないわけでもない。すぐに撮影結果が判らないフイルム時代の時間差のあることは、結果としてこのえげつなさがないところが良かったのではないだろうか。とかなんとか。