市井の桜を見上げることこそが春

 4/5金曜日は終日寒くて雨模様になる予報。その金曜の朝にこのブログを書いています。写真は昨夜に赤信号で停まった車の中から見上げた桜の花の写真です。トヨタの販売店の前だったようです。

 明日明後日の土曜日曜は、花見に良い日になると天気予報が告げていました。ならばカメラをぶら下げてどこかへ行ってみようかな、と思う。だけどあまりに人が多いところは避けようかなとも思うわけです。

 ある年の春がこうしてやって来て、桜やそのほかの花が一斉に咲きはじめ、新緑がみるみるうちに芽吹いてくる。一週間どころか数日前と今日の植物の変化は、目まぐるしい。目まぐるしいはずなのに人は鈍感で、その鈍感であってもよくわかるのが桜の花であって、それは花の開花から散るまでの同時性と目に見えてわかる時間経過のおかげなんだろうな。もしかすると毎年同じようなことをここに書いているわけですが、どこかの「名所」で立派な桜をその花の絶頂期に見たり撮ったりする、というのも楽しいのですが、こうして日常の中で見上げる名もなき市井の桜、いや、日常の中にある通り過ぎる桜たち、そういう季節の中にいた、ということの方が、春を迎えているという大事な時間なのではないのかな?いつも思うのは、花を付けるまで桜なのかどうかもよく判らない葉を落とした木が街の中にたくさんあって、その中の桜が一斉に花開くのを、どこか俯瞰できる場所から広く見る機会があれば、街の中で桜が一斉蜂起しているようだということです。蜂起などという単語が思い浮かぶのは桜の頃だけです(笑)

 日本のあちこちで地震が起きているし、戦争は泥沼化していつまでも終わりそうもない、各国の政治バランスが首長の変わり目で動いたりすれば日本だっていつ戦争に巻き込まれるかわからないなと不安になる。1ドルが150円と聞けば、むかしは80円だったからだいたい倍だよな、そりゃあUSAで100ドルで売っている写真集を日本で買おうとすれば、昔は8000円だったものが今や15000円だものな・・・これカメラに置き換えれば80000円だったカメラが150000円だよ・・・などと換算したり。

 日々が過ぎていき、読書は相変わらず進まない。けれど、最近読んでいる小津夜景著「いつかたこぶねになる日」の最初のたこぶねのエッセイは面白かった。そんなたこがいることを知らなかったから、驚きました。