ミヤギフトシの二つの展示を観てきた

 地下鉄の表参道駅のA4出口を出て、根津美術館の方へ降りて行く途中を左に折れた場所にあるギャラリーと、そこから更に坂を下りて、美術館も過ぎて進み、高速の下に出たら左に曲がって六本木の交差点まで20分くらい、もうひとつのギャラリー、その二か所で現代美術の作家という言葉でいいのかな、ミヤギフトシの展示をやっているのを観に行った。私小説って日本独自の分野だって聞いたことがあるけれど、そうであれば同じように自分にまつわる虚実入り混じった作品が他分野からも生まれることは、日本ではあり得るはずで、しかもどうやら、いろんな表現において私小説っぽいものは海外にだってたくさんあるんじゃないかな。小説だって、日本の私小説の描かれる世界がそれこそ小さく小さく、もうくしゃって丸まっていて、だけど水に入れてみると広がりながら滲んで、七変化した表現で読者に迫るとすれば、私生活から歴史を辿り壮大な視点へと凧に張り付くようにして上空から世界を見まわしているように読者に畳みかける、そういう違いがあるにせよ、やはり海外にだって私小説と呼べる作品があると思う。と、ここまで書いてきて、私小説の定義そのものが曖昧なままこんなことを書いても、ダメなじゃないかと思う。アラーキーの私写真の宣言文が、センチメンタルな旅だったかに載っていた。音楽なら、インストルメンタル音楽では読み取るのが難しいかもしれないが(それだって題名という明確化手段がある)、歌に歌詞があれば私的視点の歌もあるだろう。ミヤギフトシ作品は「私」現代表現でどこかつながりつつ折り重なるように、すこしづつずれを作りながら、数年にわたり、作品が生まれてくる。いつも作品のなかで過去と今とを行き来する人と人とのつながりの物語があり、現在進行で生まれてくる作品だからこそ、そこに描かれる中身は懐かしさを辿る過去へ向いている感じがする。人と人と書いたけれど、多くは濃密な二人のあいだのやり取りの断片が、どこかの部屋で一緒に、あるいはPCのモニター越しで行われて、舞台設定は(なんとなくの印象かもしれないが)夕刻から夜で、二人の絆が浮かび上がる感じ。先日資生堂ギャラリーで見た第八次椿会(ここではミヤギ作品もあった)に出ていたグループmēの動画作品や、コロナの波が大きいときばかり上映会が重なっていたので、ここ数年ずっと行けていないトヨダヒトシのスライドショーや、おなじように小さな私の世界を見せることで、その先の「現在の世界」へつながるから興味深いのかもしれない。

 長々と書きましたが、なんのこっちゃって感じですね。

https://www.voidplus.jp/post/695430161736384512/

http://www.ykggallery.com/exhibitions/ミヤギフトシ_「american-boyfriend-banners」/

https://fmiyagi.com/