渋谷September2022

 1979年、季節は忘れたが雨模様の土曜日。当時住んでいた寮があった東急田園都市線市が尾駅から渋谷まで出て、あの頃渋谷に行く主たる目的はレコードを買いに行くことだったから、輸入盤レコード屋には確実に行ったのだろう、そして今もあって当時もあったムルギーでカレーでも食べただろうか、最後に駅に近い書店に寄って、平積みの棚から手にして深く考えずに買ったのが村上春樹の「風の歌を聴け」だった。寮に帰って読み始めたら面白くて、あっと言う間に読み終えると、誰かに読んでもらって感想を話し合ってみたいと思ったが、土曜日の寮はみなどこかへ出かけていてあまり入寮者が残っていなかった。

 寮は最初二人部屋で三年くらい住んでから一人部屋になり六年住んで退寮した。部屋の壁にグレイト・ジャズ・トリオの大きなポスター、レコード店でもらってきたポスターを貼っていた。1981年頃のゴールデンウィークには青いスズキの250ccのバイクに乗ってツーリングに出た。出発した日は休みに入って三日目くらいで、そのときも寮の友だちの多くは帰省が旅行にもう出発していた。私は、ほとんどだれもいない寮の廊下を通って、階段を降りて、玄関でスニーカーに履き替え、寮の裏側に停めてあったバイクを押してきて、寮の前の坂道に停めてからヘルメットを被り、跨った。その部屋を出てから出発するまでのあいだに見えていたもの、とりわけ部屋のドアを閉める直前に部屋に張り渡された洗濯物をかけるロープにTシャツが何枚か干してあり、その向こうにポスターの中のロン・カーターが見えたことを覚えているのだ。

 ロン・カーターがピッコロベースを奏でる二枚組のLPレコード「ピッコロ」を友人のK君が買って二人で聴いたのは1977年くらいだろうか。まだ学生時代で市が尾の寮に入る前のことだ。数日前のブログにモノクロフイルムはTMax100を使ってマイクロドールXで現像していたと書いたが、それはもう少しあとのことで、1977年頃にはやはりTriXで現像液はD76だった。たしか1:1希釈の20℃で9分くらいだったか。写真仲間は上記のK君やM君やS君で、キャビネサイズプリントした写真をお互いにぶつぶつ交換していたが、そのときにプリントの白い縁のところに名前のサインを入れたりしていた。オリジナルプリントであることを示して巨匠ぶったような遊びだった。いまでもK君やM君の当時の写真は大事にとってあるが、二十歳の頃の彼らの写真はなかなかかっこいい。K君の撮った残雪の残る草千里の風景写真や、M君が撮ったすりガラスの向こうにたたずむ妹さん?の写真などだ。そして私が彼らに交換であげた写真も残っていたが、これがつまらないんですね。線路わきの枯れすすきとか、並走するトラックの大きなタイヤとか。あのことは対等のつもりでいたのだが・・・

 もう少しロン・カーターの話をすると、大学時代の1975-79年のどこかで名古屋でロン・カーターがけっこう大きなホールで演奏をするのを聴いたことがあった。ロンがピッコロベースで、バスター・ウィリアムズ(っていうベーシストいましたかね?)ウッドベースだった。ピアノが誰だったか・・・演奏が良かったとか良くなかったとか、感動したとかしなかったとか、そんなことよりコンサートに出かけて会場について演奏を見て帰る、という一連の行動で見ていたことが記憶されている。ロン・カーターの演奏は覚えていないのに、席が一階のけっこう前の方の。正面より少し右側だったのだろう。そういう視座から見たと思われる視覚の記憶がある。そのロン・カーターはNYに出張に行ったときにジャズクラブ「スイートベイジル」でも見たな。1990年頃だ。

 K君と渋谷で待ち合わせをして居酒屋に行ったのは1980年代のいつかだったろうか、小さく人がすし詰めのような店で、そこに行った理由はカンガルーの刺身が食べられるから行ってみようというのが理由だった。その料理(というか刺身なので料理というほどのもんじゃないけど)は「カンガルー刺身」ではなく「ジャンプ刺」と呼ばれていた。

 渋谷で四つくらい年上と一つ年上の先輩、同じ会社にいる同じ大学の先輩と生牡蠣を食べに行ったことがある。これまた1980年代だろう。生牡蠣が20個出てきた。なぜ20だったのかはわからない。この先輩二人と私のチームはときどきなにか食べに行ったり、なぜかヨット教室に行ったりした。生牡蠣20個は全員が六個づつ食べてから二つ残った。そこでジャンケンをした。一番上の先輩が負けて、一つ上の先輩と私が七個を食べた。結果、六個の先輩だけが大丈夫で、残りの二人がお腹を壊した。

 ヨット教室というのは葉山マリーナあたりだったか、それとも江の島だったかに朝早く集まって3人乗りくらいのヨットの乗り方の講義を受けてから実際に乗ってみるという一日コースだったが、まぁなんとなくこんなものかと思っただけだった。ただすぐ上の先輩が、近くの突堤に遊びに来ていた女の子をヨットから見上げたら、ホットパンツの横から下着が見えたぞ!と言い張ったから笑い転げた。

 名曲喫茶とロック喫茶とたくさんのラブホテルとカレーのムルギーのある一角を昼間に写真を撮り歩く。夜に怪しい街になる場所の目覚めは遅くて、真昼間は無防備にあっけらかんとして夜には見えない稚拙な造作を見せている。フイルム時代もデジタルになってからも、回数はどんどん減って月に一度二度だったのが年に一度二度になったけれど、スナップして路地を右往左往することは今もある。

 今、渋谷に行くのはシアター・イメージフォーラムユーロスペースなどのミニシアターに行くときや東急bunkamuraに展覧会を見るときくらいになった。イメージ・フォーラムでは、ソール・ライターやロバート・フランクやヴィヴィアンマイヤーの記録映画やジョナス・メカスの16mm、写真集出版社のシュタイデルのドキュメントなどを見て来た。

 先日、珍しく渋谷のバーに行った。短時間、ニセアカシアのメンバーと会い、モヒートを一杯飲んで帰った。上の写真はそのバーのトイレに貼ってあった写真です。壁を使ってグループ写真展をやっていたから、そのうちの一人の写真かもしれない。ちょっと不気味な人形が写っていて、写真がマスキングテープで直接壁に貼ってある。なんだかこういう展示は2000年代頃に、立派な額になんか入れずに壁に直接テープやピンで留めちゃえばいいじゃん、という気分が蔓延したころのようだ。あの頃はそういう手造り感のある作品の提示の仕方が音楽なんかでも始まっていたかもしれない。それが助走になりスマホ親和性が高い気分がもてはやされた気もする。

 モアイ像で人と待ち合わせたことはあるけれど、ハチ公側ではないんじゃないか。そうだ、ここには一昨年くらいまで向こう側に東急5000系電車が置いてあったのにない。ないことにその場では気が付かず、いまこのブログを書いていて思い出したんだ。当たり前にあったものがなくなると驚くこともあるが、当たり前にあったものがなくなっても大して気が付かないまま忘れちゃうということだってある。そっちが多いかも。集まっている人の数はどうだろう?コロナもなんのその、ずいぶん大勢の人が集まっているじゃないか。密度でいえば昔も今も変わらない。平均年齢も変わらないのなら、ここに集まる年代があって、それを卒業してしまう感覚もあるのだろうか。密度は変わらないけれど、スマホ画面を見て操作している人ばかりだな。

 上の方にいくつか思い出話を書いた。1970年代80年代90年代。誰かと待ち合わせて会えないと、会えない今の状況をまた連絡しあって、場所や時刻を修正することはほとんど不可能だった。よくあったのが駅ナカホームで待っている人と改札外に出て待っている人が、実質距離では十メートルも離れていないのに、会えなかったなんていうことだった。だけどスマホで連絡をとれるかとれないかより、とろうかとるまいか、もう少し待とうかどうしようか、しつこいと思われたくないな・・・あるいはあなたに夢中であることを悟られたくないな、等々で、スマホを使って「ちゃちゃっと済ませる」というほど簡単じゃないのかもしれない。その方がいいですよ。

 だらだらと思いつくままに書きました。ロスト・イン・トランスレーションの映画をもう一回見ようかな。