ズーイ


 フラニーとズーイを読み終えた。学生のころに本当にこの本を読んだことがあったのか、再読しているという感じをまったく受けなかったから読んでいなかったのかもしれないな。この小説には、太ったおばさん、というキーワードが出てくる。
「自分は自分だけであって、他の誰でもない」という当たり前のことをこう言う風に書いてみて、そのあとに、そういう風に個が「閉じ込められている」ということは、当然だと思って生きているわけだれど、そういう大前提がすなわちとてつもない孤独であるってことだとも言える、なんてあらためて今まで考えたこともないような(あるいは若いころにはそういうような「感覚」を漠然と思っていて、だから音楽が新鮮で心が震えたり、誰かの詩の全部ではなくほんの一節にものすごく惹きつけられたりしたのかもしれない)ことを「あらためて」考えたりする。すると個人にとっての「他人」、あるいは人だけでなく動物でも植物でも物でも風景でも空でも風でも、個人が五感で感じられる外の「世界」は、すべて個人の視点から見ている個人的な物で、すなわち個人的ではなくみんなもおんなじと思っているのは孤独を感じないためにそう思っているだけで、たぶん誰ひとり全く同じようにはなにかを五感で感じて自分で解釈した、それしか方法がないそういう個人の外の「世界」の認識の仕方の結果、その結果は同じではない。パブリックビューイングで見ているものは同じでも、人のセンサーを通じて人の心(それが脳なのか心臓なのかどこなのか知らないが)になったときには百人いれば百の「感じ方」というか「感じた」結果がある。それでもその視点を上げて行って、その結果の違いをひとまとめにして、ひとまとめにしたいくつかをまたひとまとめにして、そういう風にどんどん解像度、心のありようの解像度を下げて行けば、おおまかにこの世界から人は「喜び」を感じる傾向が多くて、「喜び」という段階では孤独ではなく共有が出来た、ということになる。「喜び」は「怒り」でも「哀しみ」でも「楽しい」でもいいわけだけれど。そういう共有をできるだけ心の解像度を下げない段階で出来ることが可能であれば、それが愛情という単語とか、共感とかになっていて、その先にもしかしたら平和みたいなことも、少なくとも暴力から遠い土地が待っているのではないか。そういう風に個人から見た外の「世界」とのできるだけ解像度を下げない共有をするために比喩としての、外の「世界」に住んでいる「愛すべき」他人としての「太ったおばさん」のことが書いてある小説だった、私にとっては。
 私の太ったおばさんは、舗装してある歩道の壁を背景にして左向きに立っていて、スカートをはいている。白っぽいスカート。天気は晴れで、よくは見えないが、うーん、日傘をさしているいるようだ。太ったおばさんは左向きに立って正面を見ているから私からはその顔を見てとることが出来ない。フラニーにもズーイにも、太ったおばさんは癌だと感じたようだが、私の太ったおばさんは癌ではないようだ。

 写真は横浜の日ノ出町から伊勢佐木町のあたりを歩いているときにどこかのパチンコ屋の休憩ソファーで数人の男性客が寝ているところ。

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)