伊勢佐木町や大桟橋


ここ数ヵ月、新しく買った1インチセンサーのコンパクトデジカメを主に使っていたが、9月の最初の土曜日にはその間ずっと可動していなかったフルサイズセンサーの一眼レフと50mmレンズの組合せの装備(装備何て言う重々しい単語じゃないのですが・・・)で横浜を散歩した。桜木町駅で降りてから、野毛を歩いて、都橋って言ったっけ、川のカーヴに沿って建てられた二階建ての、小さな飲み屋が蜂の巣のようにずらりと並んでいる飲食店ビルのまだ一軒も店の空いていない二回通路を息を詰めてそっと通り、大岡川を渡ってコリアン街の風情の通りを、このあたりは風俗の店も多くて強面のお兄さんなんかが道の角々に立っているような(正しくは全部の角にそんなお兄さんかいるわけではないのだが、それどころかそんな人を一人二人は見た程度なのだが、実際は。だけどもその辺りの雰囲気を伝えるとしたらこう書きたくなる)感じで、だからさっさと通り抜けて、古くからある、即ち青江美奈がそのまちの名前にブルースと付けて歌った伊勢佐木町に出た。伊勢佐木町関内駅から遠ざかる方の「奥の方」は人通りもそれほどではなく、着古したポロシャツに半ズボンでサンダルのおじさんやら、夜の仕事に出るまでの時間に買い物をしている主に東南アジア出身らしい家族や、一体どういう暮らしをしているのか皆目想像が及ばない草臥れた感じのじいさんやばあさん、そうかと思うと真っ黒い大型高級外車が横切って行ったりで混沌としている。伊勢佐木町のメイン通りと平行な細い片側一方通行のような道には、新しいマンションがあるかと思えば昼間から営業している風俗店もありで、街の変化の中で、変化の方向性のばらつきみたいなことが大きくて、即ち「雑」なのだ。人間的な感情が行ったり来たりする、もしかしたらそれが「時代遅れ」になっているドラマが、通り過ぎる私には見えないものの、そこらじゅうに潜んでいる感じで、これが街の魅力なのだろう、だけど臆病者の私はそこを横目で掠め取って行くだけだった。開店前に傍観者として。そこから関内駅の方へ進むと見慣れたユニクロやBOOK・OFFやタリーズドトールか覚えていないがそう言うチェーンのカフェや、牛丼チェーンの店が現れる。しかし通りの両側にそう言うどこにでもある店が並んできても、虫食い状態とは言え残っている昔からの洋服屋靴屋や眼鏡屋やらがあるせいか、それとも奥の方で際立って見えた混沌が関内駅あたりまでちゃんと及んでいるせいか、伊勢佐木町と言う街の独特な色合いが残っているのだった。
さらに伊勢佐木町関内駅を越えて港の方に歩く。名前は馬車道になり、やっと街から受ける感じは「標準化」してくるがそれでもやっぱり横浜なのだ。ディスクユニオンに入りなにも買わないつもりが、ビル・フリーゼル+ロン・カーターポール・モチアンのトリオのアルバムが気になり、ジョアン・ブラッキーンが川崎僚などと組んだアルバムも気になり、ジム・ホールアート・ファーマーのスタジオ盤は持っているもののこんなライブ盤もあるのかと初めて知って聞きたくなり、困ったものだ。
ディスクユニオンのあとに港に向かって斜め右に方向修正するべくときどき右に折れながら歩き、最後に大桟橋に行き着いた。
結論として、いやこんな結論なんかも本当は不確かで久々に使ったことがバイアスになっているかもしれないのだが、でも今日のところの結論としては、一眼レフで撮り歩く方がずっと楽しいものだ、と言うことだった。


[rakuten:surprise-2:10147751:detail]