入江宏のCD


知人の「余白や」ことYさんが企画し解説も書き、MUZAKから3月に発売されたジャズピアニストの入江宏の二枚組アルバム「Hiroshi Irie 1955-2014」を遅ればせながら聴いた。最近では、宇都宮に単身で行っている日には、帰宅後に寝るまでのあいだにずっと聞いている。
医師で、晩年は鳥取での医院を切り回していたこともあり、ジャズピアニストとしての活動の機会は週末に限られ、広くは知られてはいなかったようだ。私もYさんに話を聞くまでは知らない演奏家だった。病を得て一昨年に逝去している。解説を読むと共演していたミュージシャンは日本のジャズ界で良く名前を知られている人ばかりで、実力者だったことがうかがえる。Yさんと入江宏との関係もYさんご自身から何度か聞いていたが、それをここに書き連ねる失礼はもちろん出来ない。
CDの二枚目は、様々なミュージシャングループやバンドに参加したときの演奏を集めたオムニバス。一枚目は亡くなったあとに見つかった、ソロピアノ演奏のデジタルレコーディングしたデータからのCD化で、自宅スタジオで誰かに聴かせるためでもなく演奏していたものだと言う。このソロ演奏が、しいて誰に聴かせるためでもない演奏だった故に、と言う点を、こじつけて言うとすれば「てらいのない」「素直な」なんて単語も浮かんでしまうがそんなのは録音された際の上記のような状況(誰のためでもない演奏であること)を知ったことから浮かんだ言葉に過ぎず、私はこのピアニストの観客を前にしたソロ演奏を聴いたこともなく、だからそんな風に安易にとらえるのは止めよう。こじつけて理由や言葉を取り繕う、その以前の段階、耳が音をとらえた瞬間のところで、音が楽しい、即ちまさに「音楽」なのだろう。

この文章を書きながら、ときどき考えることを思い出した。それは誰も見ていないところで繰り広げられて時々刻々と変化している絶景を含む風景のことだ。誰も知らないところで起きている自然界の変化のことだ。人が知っている、いや「知る」と言う単語も随分と傲慢な、人を主体とした言葉の選び方だろう。人が、その鈍感な五感をもってでも受容できる時間の中で起きている様々な変化、その変化が、たまたま人にとっては共通に驚きだったり美だったりすることもあるが、そこに誰もいなければ人の集合としてその驚きや美は認識されずにいる。そう言う誰もいなくて、誰にも知られないところで起きていることが圧倒的に多いのがこの世界だ。人を中心に考えると、誰も見ていないそう言う風景は、誰も見なかったから誰も知らず、誰にも知られないから、起きてないのと変わらない。極論すると人が認識してなければ起きていない。と、こうなりかねないが、直感的にこの極論はなんだかだいぶおかしい。
この疑問(誰にも知られない風景とはどう言うことか?)には堂々巡りこそあれ結論には至れないのだ。少なくとも私には。そもそもこんなことを疑問として持つことからして変なのかもしれない。

入江宏の音楽を聴きながらこう言うことを考えていた。

音楽が誰のためでもなく演奏された。その演奏が(CDになることで、後日に)多くの人のために再生される。風景の話とはまったく関係ないのだろうか。なんかちょっと気になる二つのこと(聴衆に向けない音楽と誰も知らない風景)なのだった。

メモリアル・アルバム 1955-2014

メモリアル・アルバム 1955-2014