腕を組む水着姿の男の絵


新宿三丁目駅近くのカフェの壁に飾ってあった絵。なにかを写真に撮ろうと思うときには、かなりの確率で意識的か無意識的かの違いはあれど、過去にどこかで見た写真のあとを追うような、真似をするような、そんなことが心のなかで起きていて、そこから生じる安心が、結局のところは写真的であることの公知例を知っていることから来る安心が、写真を撮らせている。そんなこともあるだろうな。
でも不思議なことがあるもので、この壁の絵を見たときに、浅井慎平氏が背の高いボクサーと背の低いボクサーが並んだ絵が壁に掛かっている写真を撮ってなにかの写真集に載せていた、という記憶が現れていてそれがこの写真を撮る原動力になっていたのだが、帰宅して本棚から持っている氏の写真集を引っ張り出してきて、何冊か見直しても、私の記憶にある「二人のボクサーの絵の写真」は見付けられないのだった。

ところで、以下は、吉田拓郎のことです。

高校一年生か二年だった頃に吉田拓郎が「元気です。」というアルバムを出して、そのあとに大学生になるまでに「お伽草子」「ライヴ73」「人生を語らず」が立て続けに発売され、私はご多分に漏れず拓郎を筆頭とするフォークソングブームと言うか、一見反体制的姿勢を旗頭にしている風な、故に「若者の」音楽に夢中になっていた。当たり前のどこにでもいた1970年代前半の、60年代の嵐のあとの既におセンチで売り物に成り下がった反体制っぽい雰囲気に安心なところから浸っていた、なんて言い方もできるのかもしれないが、そんなことはいちいち考えては全くなくて、ただ「テレビに出ない」「歌謡曲とは違う」「シングルよりアルバムで自己を現す」「レコード会社の利益のためでなくレコード会社を使って自らの主張をする」「詩も曲も演奏も歌も一人でこなす、何故なら表現なのだから」と言った打ち出しを素直に信じていて傾倒していた。そう言う打ち出しには本当のところもあっただろうし、それすら商魂の結果の作られたイメージでもあっただろうし、さらにその真偽がごちゃ混ぜになっていて歌手の方もよくわからないままそう言うカリスマを演じさせられていたところもあったのかもしれない。あの頃も今も、流行歌に限らず何においても、いつもそうなのだろう。なんて考えてると達観だか諦観だかのようだけど。
吉田拓郎CBSソニーから独立してフォーライフを立ち上げた頃に、私はと言えば日本のフォークソングよりもジャズや洋楽ロックを聴く時間が増えてきた。拓郎の歌は新譜が出るとなるべくは聴いていたが、80年代の中頃からは新譜が出ても聴くことがなくなっていた。
昨年、拓郎がツアーをやると知って、懐かしさに駆られてeplusやらピアやら、三つか四つのチケットサイトで関東のコンサートをしらみつぶしに、しかも同じく懐かしさに駆られて一緒に行こう!と盛り上がった会社の同年輩のAさんも同様にしてチケットを申し込んだが、即ち8回くらいはトライしたが当たらなかった。最後は申込数2と言うのが不利で一人ならカップルやグループに挟まれた席がポツンとひとつ空いていたりするのではないかと思い、Aさんを裏切って一枚だけ申し込むと言うことまでやってみたのだが当たらなかった。当たらなかったこともあったので、ふとTSUTAYAにいったときにライブ2014のライブ盤のCDを借りてみた。
吉田拓郎は70年代80年代は若者を先導しながら主張をしているカリスマのような、そう言う捉え方だったのかもしれないが、実のところは一般的な考え方の男が時代のなかでたまたまそう言う役目を与えられていたのではないのか、と思った。彼の主張は先導していた主張なんかではなく、時代の代表の代弁だったのではないか。ま、だから同時代的にも受け入れられたってことだろう。
私が聴かなくなった以降の代表曲を聞いていると、年齢とともにそれぞれの年齢に相応しく思うことや感じることを、私小説のように吐き出しているように思える。だから、歌詞を聴くと、ときにはくだらないことに拘泥していたり、ときには笑ってしまうほどダサいことを吐露したり。そう言うの70年代の拓郎にも実は沢山あって、いまになってそのことが判ったような気がした。
もちろんそう言うのが全部じゃないんだけど。チラリと見えるだけかもしれないが。
それで、もしかしたらバカにする人もいるかもしれないが、ここのところ通勤や出張の電車やバスではiPODに入れた拓郎の、主に90年代以降のアルバムをよく聴いている。日本語の曲を、それも何を歌っているか、歌詞をちゃんと聴き取ろうとするから、若い頃は耳から入ってくる曲の歌詞である日本語を理解しながら、目で追っている音楽とは無関係な文章も同時に理解出来たのかもしれないが、もうそんなのは不可能で、なのでiPODで拓郎を聴いているから、全然本が読み進んでいないのです。