かっこいいことが大事だ

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 一昨日のこのブログ「なにも思い出せない季節」に載せた10年くらいまえに撮った河川敷のサッカー場の写真は、古い写真を見直していて、それでどこにも使ったことのない写真を拾い出したと思っていたのだが、たまたまブログを見直したとき(桜と入れて過去記事検索をしたとき)その日に同じ写真を使っていることを見つけて、なんだ!・・・とちょっとがっかりしました。ただ、トリミングや、明るさとか色味調整 ~そういうのはけっこうマメに調整しているのです~ はずいぶん違っているようだった。一昨日の方がずっと明るく調整していた。このブログにも、いままで「撮った日と、見る日のあいだに、長い時間があると、見え方や価値観が変化することで、埋もれたまま使わないはずだった写真が拾い出されて、たとえばこのブログに載せるなどして若干だけれど「脚光を浴びる」。そして、どんなに撮った日が古い写真でもそれを選んでいるのは今なのだから写真とそれを見ている人の関係性は常に新しい」などと書いたことが何度もあったと思う。それはそうなのだが、でも、結局同じ写真を選んでいるのだから、上記の「見え方や価値観」が「変化しない」場合もあるということの証明を突き付けられたようだった。その「変化しない」のが確固たる自分自身の美的基準のようなことがあるから、となるとちょっとカッコイイ感じがしないでもないが、自分自身のではなくて世の中の一般的尺度にずーっと縛られ続けているのだとすると、むしろカッコ悪い。吉田拓郎の「知識」って曲の歌詞を思い出してしまった。

♪自由を語るな不自由な顔で 君は若いと言うつもりかい 年功序列は古いなどと かんばんだけの知識人よ♪

自由を語るな不自由な顔で・・・ってところ。

 こういう気持ちは、1960年代70年代と、社会を変えてやろう!という気分がどんな若者にも(特別にそういう運動に参加していない人にも)あって(上の世代に負けないぞいうような気分が「僕らの・・・・」という意識になっていた)すると、すでに確立した新しい価値はすぐに腐敗した古い価値に成り下がるから、それを越え続けるために新しいものに挑戦し続けなければかっこわるいという共通認識があった。だからなかには、相手を嫌いになったわけでもないのに、恋とは短く終わることがかっこいいのだとばかりやせ我慢で恋を終わらせるような輩もいたんじゃないか。高校時代の友人と、人生とはなにか、って話をした。もしかしたらいまよりずっと人生って言葉が使われていたんじゃないかな。それで友人と私が辿り着いた答えが「人生はかっこ」だった。もっとちゃんと言うと「人生は常にかっこよくあり続けたい」という宣言のようなことだ。

 だから私のこういう価値観からすると十数年前に選んだ写真と、今現在選んだ写真が同じなどということは、変化していない(転がる石でない)ってことだから、これはかっこ悪いではないか・・・というふうに思っていくようだ。

 高校のころ、クラスの男子の1/3か1/2はフォークギターを買って、それで「戦争を知らない子供たち」とか「あの素晴らしい愛をもう一度」、「僕の胸でおやすみ」や「マークⅡ」をがしゃがしゃと弾いては歌っていた。わたしもある日、フォークギターを平塚市の駅ビル内の楽器屋で買った。k.Countryというブランドの安価なギターだった。買ったときにはもちろんギターを弾くことはできない。弾くと言っても、CとAmとFとG7で巡回コードをがちゃがちゃ弾くくらいのものだけど。弾けないのにギターを持って街中を歩いて帰るのが、なんだか恥ずかしかった。弾けるようになるまでギターを練習していることを内緒にしておきたかった。それで高校生のくせに買ったギターを持ってこそこそと目立たぬようにタクシー乗り場へ行き、タクシーで一目散に家に帰ったのだった。そんなことを思い出した。

 夜になり雨降り始める。

 写真は昨夕の茅ケ崎。