夜が来るころ


宇都宮から茅ヶ崎まで、上野東京ライン湘南新宿ラインを使って三時間弱。グリーン車は撮影場所入場料のようなもので、二階席の進行方向に向かって左窓側、空いていれば一番後列の席に座り、コンデジで車窓を流れる風景を撮る。一回あたり少なくても百枚、多いと三百枚も。2005年の春、最初の写真展を渋谷ナダール355で開いたときに、当時使っていた、いまから思えばずいぶんとチープな、わずか300万画素のデジカメで撮った車窓風景から二枚ほど使ったから、遅くとも2004年頃からそんなことをずっとやっている。仮に11年のあいだに、そう言う機会が年に15回あったとして15×11イコール165。その度に平均で200駒撮ったとすると、33000枚もの車窓写真が、一応は撮影した画像データはすべからくハードディスクに落としてとってあるので、残っている。ではいつかそれらの写真を見返すだろうか?まずそんなことはしないのじゃないか?大抵は帰宅して、その日のうちか、数日内にパソコンにデータを吸い上げる。そのときに一応は撮影したすべての駒をささっと見る。ブログを書くときには写真を選ぶのでもう一回くらいは、後日に見直すかもしれない。それきりだ。車窓写真は一例にすぎず、ほとんどすべての写真データがそうなっている。家族や他人友人の写っている写真も、たまには添付データで送ったり、プリントアウトをするものの、おおむね同じように埋もれていく。
まったく!なーにやってるんだか?と、こんな風に書いているとそう思うわけだが、撮る、見る、選ぶ、場合により加工する、プリントしたり共有したりする(鑑賞する)、のうちの撮るだけを繰り返している。
少なくとも撮っておけば後日になんとでもできるから、だから撮る、と言うような気分がどこかにあるに違いない。
ゲーリー・ウィノグランドだったかな、没後に未現像のフイルムがたくさん見つかったとか?ゲーリー・ウィノグランドであれば、それらも管理され現像されるのだろうか。
裏が白い広告の紙、商品を買ったときの紙袋、コンビニの袋とかも、いつかは使うかもしれないと溜め込むことがあるだろう。
そんなようなもんだ。使い捨て車窓写真に過ぎない。
いや、そうであっても撮ることに意味がある、と言う価値観もある。