歩道橋


 午前はマンションの理事会に出席する。午後は自動車の六か月点検に行ってくる。整備の待ち時間に自動車屋さん近くの古いお蕎麦屋でおかめ蕎麦を食べる。椎茸(どんこ)、ほうれん草、玉子焼き、麩、蒲鉾、筍。雨降り続く。
 帰宅後、ここのところずっと続けている車窓写真からのこんな風な画像の「作りこみ」作業をする。しながら、ジャズのCDを聴く。最初はブラッド・メルドーのアート・オブ・トリオの、全作をまとめたボックスから適当に抜いたものを。ついでCDを並べてしまってある棚から適当に取り出してきた、レッド・ガーランドの和訳すると「空が灰色のとき」といったタイトルのを。

こんな風な、歩道橋とフェンスと工事現場とトラックと背景には大規模修繕中のマンションがあるような雑然とした町の光景は、いざ今そう言う場所へ行ってみろ、と言われてすぐにその場所を具体的に挙げられるわけではないにせよ、日常のなかに属していて、いや何年かに一度の大規模修繕を行っているマンションの住人にとっては、大規模修繕は日常ではない期間なのかもしれないが、そう言うマンションがときどき、決して珍しくもなく含まれる状態が日常の町の光景であろう。もし、電車の中からではなく、町を歩いていてこんな光景の場所に行き当たったら写真を撮るのだろうか?あるいは一枚か二枚か撮ったとしても、大量に撮った中のありふれた一枚に過ぎず、帰宅してパソコンのなかにたくさん取り込んだ「今日の写真」からその写真に注目するだろうか?きっと撮らないし、きっと注目しない、と思う。
にもかかわらず車窓から撮ったこの写真を私はけっこう気に入っていて、手間隙かけて、って言ってもある程度オートマチックに画像をいじる順序は決めてあるので、10分かそこらに過ぎないのだが、フォトショップで加工して、こうしてブログにアップしたり、もしかしたら写真同人ニセアカシアの本に載せるかもしれないのだ。その違い、車窓から見えた瞬間に撮った制限の多い(構図を決めたりできない)写真と、例えばこの場所に行き当たったとして、そこで撮った、ぶれてもなく、構図も考えられ、解像度も色再現もより高い写真、その二枚の違いがどこにあって、なぜ前者をいいと思うのか?結局はトイカメラで撮ったような低画質がもたらすような、妄想を促す力が表現できていない余地(イコール、この場合は低画質さ)に生まれるのと同じなのか。
あるいは、私が撮影者あるいは作者として、なんらかの理由で車窓写真の方をよしとしているこの選択が、きわめて自分勝手で自己満足でしかなく、ほかの方、鑑賞者から見ると、まったく訳のわからない、理解不能な選択なのかもしれない。

あるいは、選択もなにも、車窓から撮ろうが、その場所でしっかり撮ろうが、いずれも、どっちがよいとかわるいとか判断するほどの興味すらわかないのかもしれない。そう言う方が一番多そうだな。
そして、私が車窓写真に夢中になっているのは、実は出来上がった画像を正当に評価してるのではなく、ただその画像処理の行為に酔っているのかもしれない。

ホエン・ゼア・アー・グレイ・スカイズ+1

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