谷口ジロー原画展 高野文子原画展 アジェ展 など


快晴。空気、冷たいというより澄み渡っている、気持ちの良い日でした。
TOPミュージアムでアジェを、日仏会館で谷口ジローの原画を、昭和のくらし博物館高野文子の原画を鑑賞。

その後に多くの複雑な系統を生み、多岐にわたる発展の、その最初の転機となった表現者が、絵画にも写真にも小説にもジャズミュージックにもロックミュージックにも、どんなところでも挙げられるのだろう。そして洗練されたり流行が変化したりで、その系統の最先端にリアルタイムで接している誰かが、その最初の表現者の作品を、リアルタイムの表現と横並びで初めて接したときに、その根源的な新しさを感じ取るのは困難で、だからなんらかの知識を別途知ってから鑑賞するという道案内が必要になることがあるのじゃないか。
 アジェの写真の良さが私には長らく判らなかった。情けないことです。たくさんの写真展や写真集を鑑賞してきたし、写真の歴史も聞きかじり程度とは言え興味を持ってきた。アジェの写真の素晴らしさに関しても、だれやかれやが解説したり表明したりした文章をいろいろなところで目にしているから、こう見るべきだ、ということも教えられている。それでも、アジェの写真に対峙したときに、すぐに「すげー」と感じるかというと、写った被写体がすでに百年以上前のパリだと言うことがますます私を異邦人においやるのか、その「すげー」がなかなか感じられないで来た。
 一年くらいまえに箱根のポーラ美術館でアジェのプリントを見たときには少しぐぐっと来たんだっけかな?
 で、東京都写真美術館でアジェ展を見てきた。やっぱり言葉より以前にぐぐっと刺さってくる直感的な凄さが来ない。それでも、一枚一枚に正対してじっくりと細部まで眺めていくと、そうか、アジェの写真には光が揺らめいているんだな、と思うようになった。刹那の光と影が写っている。木々の揺らめきが写っている。そうやって見ていると、シュールリアリズムに敏感だったかどうかではなく、アジェの写真を撮る姿勢に、無意識的だったのかもしれない嗜好(=写真の撮るアジェ的作法)があって、それが近代写真では当たり前のように言われている「光と影」なんだなと思った。そう思うと、この展覧会にもアジェを意識している作家として作品が展示されていたアラーキーや森山さんの写真を見て、かっこええやん!と感じる同じ臨み方でアジェの写真を眺めればいいとわかってきた。そうすると音楽に似た動き(身体性?)があることも見えてきた・・・気がした。
 ベレニス・アボットがアジェのネガを焼いたその選択やプリントを見ると、アジェの新しさを際立たせて焼かれている。

 谷口ジローの原画展は、ほとんど漫画を読まない私に、絵を見るべく漫画を買おうかと思わせてくれる。消費される漫画の一コマ一コマにこれだけの創意工夫や繊細さがあるのかと驚く。どうも絵を見ても、レンズの焦点距離イメージを思い浮かべてしまうほと写真に毒されているのだが、晩年の谷口ジローの絵が50mm標準から35m〜40mm程度の準ワイドに広がった気がした。

 高野文子の「新しい町」をまた読み返したくなった。高度経済成長に入ったころの日本を舞台にした夢あふれる労働者の日常や恋。

 昼は恵比寿でうな重を奮発。ジャズが流れている。食べ終わり代金を払っているときにalone togetherが流れている。
 夕方、蒲田の古い喫茶店で珈琲を飲む。our love is here to stayが流れていた。