もはや夢のような五月に

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写真を見返していた、いつものことだ。四年前に東海道線の車窓から多摩川の河川敷で遊ぶ人を撮っていた。窓ガラスが曇っていたらしく、もう少しコントラストが低い写真だったので、ちょっとだけトーンカーヴをいじって、ちょっとだけ彩度を上げてみた。

2015年に撮った写真、なんで2015年なのかと言うと、たまたまこのPCにつないであったHDDに保存されているうちで、デジカメで撮ったJPEGファイルの収まったフォルダーに収まっているいちばん古い写真が2015年だったというだけのこと。それで2015年の1月1日の一コマ目から順番に撮った写真を見て行った。そのうち季節が春になり夏になり秋になり冬が来て、一年が過ぎた。だいたいその年に撮った全部の写真を急ぐでもなく、じっくりと見定めようとするのでもなく、行きかう人の顔をなんとなくちらっと見ているくらいの速度で送って行くとして、一年分で二日かかる。もちろん朝起きてから晩までずっとそんなことをしているわけではない。朝は軽めに野菜ジュースとチーズだけの食事をしたり、ウォーキングに行ってスナップエンドウを買ったり、久しぶりにウィルコのウィルコって言うアルバムを聴いてみたり、ちょっと雑誌を捲って京都の居酒屋に行きたくなったり、そんなことをして過ごす一日の中に、なんとなく収まりの良い長さの時間を写真を見る作業に振り分けた、その結果の一年分を二日。そして三日目に写真ファイルは年が明けて2016年になり、2015年とたいして変わらない2016年の写真が始まった。五月になり、この写真に行き当たったとき。あ、気持ちよさそうだな!と思った。この写真を撮ったことは覚えていないから、初対面の写真に見える。写真に残されたこの日の、日差しや気温や風の感じまでもが、想像できる。2016年の5月29日の16:16のことだった。そのときは特別でもなんでもない過ぎゆく一瞬の時間の中のことだった。そして自粛を要請されている今になってみると、繰り返すけど、2016年の5月29日の16:16に私がいた世界は、いまはもはや夢ように気持ちのよい世界のようだった。写真は撮ったときが一番新しくてそれからどんどん古びていくというのは、すなわち鑑賞している今の日時と撮られた日時の差が大きいほど「古い」と定めた、「古い」とはなんぞや?に対する定義がある場合であって、そうではなくて、今この瞬間に誰かがその写真を見て感じることが、その誰かが誰かとか、その今がいつなのか、によって、その誰かに生じてる気分や感想や思いが変わるのだから、写真には「古い」ということはなくていつもその鑑賞者がいまその写真を見ていることにおいて「新しい」のだ。

そして2020年5月の今におけるこの写真との「新しい」関係は私の心の中に、夢のようだった五月は今年はもはや来ない、と言うことなのだったから、これがこの新しい写真と同じ今にいる私のあいだの「新しい写真」なのだった。

と言うこのことも何度もこのブログに書いてきたことですね。

来年はぜひ来年のこういう五月の好日をなんの行動要請で縛られることなく過ごしたい。