五月も、もうすぐ終わる

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季節が夏に向かっているあいだは、と言うより夏至に向かっているあいだは、かな、なんとなくイメージとして「右肩上がり」の感じがする。自然も気分も。とくに五月は、植物の生長に起因して人が見える風景の変化もすさまじく、だから春なんて嫌いだと詩にかかれたりするくらい、眩しい。

昼休みは一時間あって、そのうち前半の20分くらいは昼を食べるので、そのあとに散歩に出る。会社のある工業団地を取り囲むように、この写真のような自然豊かな公園が取り巻いている。数日を経て同じコースを歩くと、その数日で木々の葉の成長も、その下に咲く野の花も、変わっていく。新型コロナウイルス感染防止対策の緊急事態宣言が始まってから今までおよそふた月くらいだろうか。そのふた月のあいだにこうして自然はいつも通りに激しく生を進めていて、その変化に目がくらむときに、なんと時間は早く流れることだろう、と思う。でも、同じ期間でも例えばコロナ感染のリスクが減少せずにイライラすると、時間が淀んでいてゆっくりとしか流れていないとも思う。ときどき思うのだが、ある所定の流れた時間を切り出したときに、そういうふうに「早く流れると感じること」と「淀んでいると感じること」は必ずセットにあって、相対的にその両方があることが必要なのではないだろうか。

東北自動車道を走っているときに、疲れを感じると、その次にやってくるSAやPAに停車する。あるときHパーキングエリアに停める。鯛焼きの店があって「お好み焼鯛焼き」と言うのを売っていた。ひとつ買って、車に戻り、運転席に座って食べる。美味しいが、それが鯛焼きの皮とお好み焼きが調和して美味しいのか、それともどんなところに挟まれよう、がお好み焼きというものはお好み焼きとして安定的に美味しいのか判らない、と思ったりする。東北自動車道を北関東から都心に向かうとき、このPAの近くには大きな川を渡る高速道路の橋がある。オープンな橋ではなく、自家用車の頭の上に橋の鉄骨がクロスしている、トラスト構造って言うのだっけかな。あの橋を渡るのが好きです。長い路程のなかで、ランドマークではないが、途中途中の道標のような感じがする。路程の真ん中あたりではないが、ついにここまで来た、だったり、まずはここまで来た、だったり、方向によっては違うけれど、いずれこの橋を渡ることは「いい」感じがする。