ひこうき雲

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久しぶりに自転車に乗ってみる。12キロ程度をふらふらと走って来る。途中、写真を撮りたい場所を見つけると、自転車を降りて、写真を撮る。ときには相模川河川敷のブッシュの中に作られている人一人が通れるくらいの細く長い散歩道を歩いたりもする。誰もあるいていないその散歩道沿いにはオニグルミやニセアカシアやエノキの木の下に続いている。かと思うともっと明るい夏草の原っぱの中へと。鳥の声に耳を澄ます。立ち止まって耳を澄ませてじっとしていると、鳥の方も人がじっとしてしまうと安心するのか、いっそうたくさん綺麗な声を聞くことが出来ました。

ニュー・ノーマルな暮らしとか社会とかって、行政のトップの方々が盛んに言うが、言いつつだれも具体的になにがそれを指すのかは不明なままなのではないか。具体的な目標がないと、流れのまま、庶民がこのあたりはまぁ新しい標準として定着できましたね、と言う、結果が全てであり、積極的な改変にはならないだろうな。せいぜいマスクをして手を洗って消毒をして、レジカウンターには透明シートが貼られる。店の席数を制限して減らしているところもあるが、経営を成り立たせるためにはそれだっていつまでもそんな余裕はないだろう。ニュー・ノーマルってそういうことを指すの?

Jリーグとかダゾンに入ればどの試合も月額数千円で見ることが出来てしまうが、それはスタジアムに一万~数万人の観客がチケットを購入して観に来るという収入があることが前提なのだろう。いまとなっては試合ごと、スタジアムに行くチケット代の三分の一くらいの値段で有料配信にして、スタジアムの席数は二つ飛ばしにしか売らない、とかにしたらどうなの?とか思っちゃいますね。どうなんでしょうね?その代わりに試合のライブストリーミングの会員になるとVR眼鏡のアプリがダウンロード出来て、好きな視点で試合を観戦できるとかになればいい。こんなのはたぶんコロナがなくても目指されていた一つの方向なのではないか。だとするとニュー・ノーマルの多くは、結局のところ、コロナがなくても「スマート化」された時代にやろうとしていたことと親和性が高く、すなわち「前倒し」が要請され、そこに商機があり、開発が加速するってことかもしれない。それはそれでいいのだろう。遠隔地治療も自動運転も無人宅配もネットショッピングも、たしかに人と人の対面接触という点では、それを減らせる方向に向いている。

すなわち人類はコロナがなくても、人と人の接触が減る方向に向かうことを新しい社会の基盤にもともとしようとしていたのではないか、と言うことに気が付く。ズームでもいいじゃん、スカイプでも出来るじゃん、て思います。目の前でこなすべきことに対しては。

でもね、本当にそうなのかな、とも思う。短期的に、いままでの暮らしや社会を知っている大人がそういう新しい社会に溶け込むのはむしろ懸念は少ないかもしれない。動物としてあるべき形で、生まれたときから人と人の接触というか交流というか、よくも悪くも人間関係のなかで成長してきたから。でも生まれたときからそういう社会や暮らしひてきた人の世界ってどうなるのか?まぁその世代にはその世代の価値観や標準が出来るから心配する必要はないのかもしれない。

帰宅後、ころもがえをしました。大量のTシャツを出してきて、セーターやヒートテックの衣類をしまう。Tシャツもセーターもかなり思い切って捨てることにしたが、それにしても持っているTシャツは多いな。それもあまり着ないのに持っていたいのもある。ロックバンドのTシャツとかUTなどで出るたびに、あるいはツアーで、好きなバンドだと買ってしまって来た。U2とかビートルズとかビーチボーイズとかジャクソン・ブラウンとか。あまり着ないけれど捨てられない。

河川敷を散歩していてたまにすれ違う人がいて、その人の聴いている音楽がイヤホンから音漏れしていた。ユーミンひこうき雲だった。

 

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