シャッターを押すこと

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新型コロナウイルス感染症防止のための自粛によって、長いこと美術館やギャラリーに行くことが出来なかった。自粛前に最後に展示を見たのはいつで、何の展示を見たのだろうか。東京との一日あたりの感染者数はあいかわらず二桁の日が続いていて、一時期の一桁前半人からみるとずいぶん悪化しているようだが、19日からは都道府県をまたぐ不要不急の移動自粛も解除となった。今日の土曜は、好天にも恵まれて、すっかり自粛前のようだった。行政としては一般には公知になっていない判断基準があって、二桁とは言っても、実は検査者に対する陽性者割合とか、発生地が広いか狭いかや、感染経路がわかっている率とか、そういうのを合わせて判断してくれているから大丈夫なんだろうな・・・と思いたいところ。

東京都写真美術館で、森山大道展「TOKYO ON GOING」と「写真とファッション~90年代以降の関係性を探る」を見てきた。

森山大道の写真を見て、美術館から外に出る。美術館近くのブリック・ロードの店が二軒?店じまいになっていた。それがコロナ禍の影響なのかどうかは判らないが、うち一軒で以前に食べたカレーが美味しかったことを思い出す。恵比寿駅に戻る道筋で、どんどん写真を撮る。写真展を見終わると、写真を撮りたくなる、というよくある話。

森山大道の写真は綺麗に並べられた展示よりも、ブックで見た方がいいのかしら。美術館での展示ももちろん悪くなかったが、買った図録がとてもいい。美術館で見て気になった写真と、ブックをめくって「くぅー、いいねぇ、かっこいいねぇ」と感じる写真が必ずしも一致していない。写真の大きさ、本の紙の手触り、色合い(図録のモノクロ写真は若干黄色というか金色風になっている、セピアではなくて)などという写真に写っている写真そのものの力ではないところが、写真の力をアシストしたり、足を引っ張ったりしている。なんて書くと当たり前なんだけど、あらためて、そうなんだな、と思うのだった。

ときどき、ロック音楽のアルバムの評価が、最近のデジタルリマスタリングとか、あるいは多チャンネルでの録音が残っている場合は、ミックスからやり直したり、オーバーダビングした音を除いたりして、同じ録音ベースでも新しく生まれ変わることで、評価が一変して、たいていはいままでの評価を覆す方向で高評価となることがありますね。「レット・イット・ビー・ネイキッド」とかはストリングスを取り除いてシンプルなビートルズの演奏だけを聞かせている。とはいえ、発売当時の「レット・イット・ビー」はストリングスが被せてあるわけで、いくら「ネイキッド」の方がいいよね、と思ってもオリジナル・アルバムを置き換えられるわけではないのだが。ザ・バンドの三枚目の「ステージ・フライト」は、一枚目の「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」や二枚目の「ザ・バンド」(通称ブラウン・アルバム)よりも低い評価だったようだが、何年かのCD化のときにのリマスタリングで生まれ変わったと言われているアルバムらしい。

写真も、同じネガなりデジタル情報から、展示にするかブックにするか、大きさはどうするか、コントラストは、カラーかモノクロか、等、いろんないろんな見せ方の「差」がある。なんてことは当たり前のことだけど。展示会場の違いももちろん大きな差だろう。写真に値段を付けて経済に乗せるための言い訳としてかもしれない「ビンテージ」プリント(=作家の最初の意図が現れている)の価値ということと、写真という表現メディアの持っている「複製可能」という特性や、「データまたはフイルム」は原版であり最終成果そのものではないということは、相容れない感じだ。

といったことは撮っているときは関係ないですね。だから撮る行為は気持ちが単純になっていて、写真がそこに残ろうが残らなかろうが、思い通りに写っていようが写っていなかろうが、そこでシャッターを押すことだけで十分なのではないか。そこから先のことは「別のこと」なのではないか。

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