ありふれていることの難しさ

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ありふれていることってありふれてないのではないか。映画のセットを組むということは思い通りのロケ地がない、もしくは、そこを探したりそこまで行く苦労よりセットを組んで表現者のイメージを具体化する方が手っ取り早いってことなんだろう。そしてそのセットは、ときにどこにもないSFの物語の舞台となる未来の町だったり、宇宙空間だったり、あるいは時代劇の場合はその時代にあっただろういまはどこにもない町や風景が必要となったり、そういう明確な必然に基づくセットばかりではなく、今現在の東京の、どこかにありふれてあると皆が思うけれど、実際にはどこにもない『ありふれたありふれていない』町だったりもするのではないか。いや、もうCGの時代だからこんなことももっと簡単になっているのかもしれないですが。結局どこをどう見てもありふれているなんて町は実際にはどこにもないのかもしれない。

もう一つ、ここにありふれた場所のイメージを持ちありふれた場所を探している人がいたとして、その人がその通りのありふれた場所を目の前にしたときに、ちゃんと、こここそが私が求めているありふれた場所だ!と、認識できるのか?と言うことも思う。

例えばこの写真の場所にカメラを向けたとき、私は、この町のどこかに写真としてのフォトジェニックな要素が、本当にありふれたところにはないはずの、ちょっとだけ隠し味のようにあるその要素があるからこそ、そこを写真に撮って、そのくせ、ありふれた場所もいいものだと、本当はその隠し味に惹かれただけなのに思っているのではないか。ではその隠し味ってなんだろう?と思って自分の撮った写真を見直しても判らないのだが。

そうか!もしかしたら、どこからそのありふれた光景を見たかということもあって、その「どこから」の見え方に「そつがない」と同じ場所でもありふれたりありふれてなかったりして、そのありふれてない収まりの良さをありふれた場所で見出そうとしているのかもしれないぞ。

そもそも「ありふれた風景」を撮りたいと思う気持ちを持つ理由がなにか?それは「ありふれた競争」が「絶景競争」同様、しかも天邪鬼的に面白いからかもしれない。いや「競争」なんかないかもしれないですが。ありふれた写真コンテストってあったら面白いのではないか、とか?まさかね・・・