夕行電車2020

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 写真仲間5人で2011年から写真集「ニセアカシア」を最初のころは半年にいちど、最近は1年か2年にいちど、くらいのペースに落ち着いているけれど、ずっと刊行してきた。写真仲間と言うのは、須田一政写真塾で知り合ったメンバーとその友人というつながりで、コロナの世界になってから集まりはずっと自粛していて、企画相談中だったニセアカシア9号に関しても停まってしまっている。でもたぶん誰もこれでいつのまにか活動停止になっちゃうのでは、などと思ってもいないので、そのうちに9号もできあがるのではないかと気楽に思っている。最新号の8号は2019年の2月頃だっけかな、西荻窪のブックカフェで刊行記念写真展(などと書くとかっこいいがこじんまりとしたものです)で発売した。発売などと書くとカッコいいが、買っていただけるのはせいぜい数十部で百までなかなか伸びないですよ。オンデマンドになって少部数印刷もやりやすくなったのは良かったな。たぶんニセアカシア7号で、私は上の写真のような車窓から撮った写真をトリミングして曖昧な画像の作品群を作ってそれに「夕行電車」と言うタイトルを付けて掲載しましたね。たぶんこのブログでそのタイトルで検索するとそのころの投稿日記が出てくるだろうな。さて、上の写真は最近撮った夕方の車窓写真で、たぶん蒲田のあたりじゃないかな。例えばこの写真は手前のぶれている人を本当は止めたくて流し撮りをしていますが、カメラを振る速度が遅すぎて、もうちょっと遠くが止まっている。すなわち撮ったときの意図には反した「失敗」写真なんですね。でもあとで見返すとなんか気になるのです。ぶれたからその向こうの川面に写っている街灯の光が、光の粒子のようになってぶれた人に纏わりついている。こういうの見ると、なんかSF小説の場面みたいではないかと思ってしまう。

『あるありふれた町の晩夏の逢魔ケ時、仕事や学校帰りの人たちがたくさん歩いていても、みな近くを歩いている人のことなど気にもせず、自分の目下の課題や計画について思いを馳せて歩いている。だから誰も気が付かないのだ。ある小さな川の線路に面した小さな橋で、音もなく一瞬、キラキラ輝く金色の光の粒が誰かの身体を包むように見えたことを。そしてその一瞬のあと誰かが消えてしまうことを。しかしその日に近視の眼鏡を壊してしまった小学校二年のアキラには、その誰にも見えない、見てはいけない瞬間に気が付いてしまったのだった。こうしてアキラの逃走が始まったのだ。』

みたいなね・・・

こんな風に自分の写真を何回も見返しては、撮ったときの意図などすっかり忘れて、一般的「あるべき写真の定義」(ぶれていない、適正露出、決定的瞬間、等々)から解放されると、ちょっと写真が楽しくなってくる・・・かもしれないですね。でもこれって「あるべき」に反しているわけだから、いいね!的なことからは程遠い。今風に言い換えると「いいね!」的なことはすでに既存価値で面白くないじゃん、ってことですね。ときには、なにこれ???から始まるのもいいんじゃないかな。