撮る人 見る人

f:id:misaki-taku:20200914214902j:plain

都内某所に街歩きに行くが、枚数は200枚しか伸びず、帰宅してから写真を見たら、まるでだめ。ここに載せても、まぁいいか、と思える写真がなにもなかった。そういうときは行き帰りの電車から撮ったこんな写真だけが許せる気がする。こんなことはしょっちゅうで、だからこのブログを長年にわたり遡ると、多摩川河川敷で遊ぶ人たちを撮った写真を使っていることがなんと多いことか・・・となるのだろう。

とある古書+新刊書店で大竹昭子著「スナップショットは日記か?」と言う薄い本を買ってみた。これは写真評論等でよく名前を見る大竹さんのプライベート文庫なのかな、カタリココ文庫からの出版物。

その冒頭のあたりに、写真を撮っているときは興奮のもとたくさんシャッターを切るが、帰宅してみると夢から覚めるようにどの写真もクズに見えてきて、一体なんだったんださっきまでのあの興奮は、とげんなりする、といったようなことがよくあると書いてあった。すなわち一人の人間でも、撮影現場で夢中になっているたぶんに幸せな「撮る人」と、冷静になって基本はがっかりするように出来ている「見る人」がいる、と言うこと。

これ、そうだよなあ。そして「撮る人」が自由闊達で決まりに縛られずにいるのに対して、たいてい「見る人」は既存尺度での良し悪し判断基準にのっとってしまう。本当は「見る人」が「撮る人」のように自由ならいいのに、なぜか世間に媚びてしまうような尺度を持ち出す。

でもね、今日の私のように「撮る人」であって、街を歩いていながら、ぜんぜん乗りが悪いってこともあるんだよな。

それからもっと大きな好不調の波もある。例えばこの私のブログのうち、今年に載せた写真だけに限っても、なんか4月5月頃の写真の方がいい感じがする。4月5月は、不謹慎だけれどあえて書くと、コロナによる緊急事態のなかの暮らしや生き方に「慣れてない」頃だった。慣れてないってことは、それが好ましくない緊急状況であっても、ある意味「新鮮」だったのだろう。その新鮮が写真にも写っていたのかもしれない。

などと考察したりする。