お世話になりました、来年もよろしく

 たぶんこの写真は十四年もこのブログを続けてきたどこかで使ったことがあるような気がします。1982年か83年頃に昨日のブログに載せた七里ヶ浜駐車場を砂浜側から見上げて撮った写真です。昨日のブログに書いたように、この写真は、今見るとたいした写真ではないんだけど(笑)、当時の20代の私はこの写真を撮ったことがとても嬉しくて、自分のなかでお気に入りの一枚となり、以降、この駐車場に、せいぜい年い三回か四回くらいだろうけれど、自分にとっての写真を撮る定番スポットのひとつとして四十年に亘り通ってきた。すなわちそのきっかけとなった最初の頃の一枚というわけです。写真を見て思い出したのは、そうそう満月が見えたんだった、ということ。月を挟んでシンメトリーに海を眺める男と女がいるという光景がたまたま眼の前に現れて、いいじゃん!と思ったんだろう。今見ると女性も顔をあげて海を見ていて欲しいところだが、それを待つようなことはしていなかった。いまならまず撮って、しばらく見ていて、より写真的な瞬間が来たらもう一枚撮るかもしれないが、それはそれでダサい気もする。女性は手元を見ているから本でも読んでいるのかもしれない。

 いまこの駐車場に行くと、変わらず海を眺めている人がいるけれど、なんとなくの感覚だけれど、こんな風に海側に足を投げ出している人はあまりいないんじゃないか。当時の写真を見ると、ほとんど皆さんがこういう座り方をしている。時代が進み、そんな座り方をすると後ろから突かれて危ない・・・といった警鐘の蓄積が人々の姿勢にも影響しているのかしら。

 どうでもいいことだけれど、この写真はライツミノルタCLとその標準レンズのMロッコール40mmで撮っていて、フイルムはKRだったかな。1979年に新宿の中古カメラ店でライツミノルタCLを買ったその日が江夏の21球の日だったことは、このブログにも最近書いた。いまもフイルムカメラで撮るときは、このカメラが稼働する確率が高いです。さらに面白いことには、わたしが買ったこのカメラを、私が買う前に新宿のミヤマ商会に売ったという以前の持ち主にその後会ったことがあるってことです。話が弾んだわけでもないけれど「あ、それ、私が売ったやつ」とおっしゃった。

 昨日も今日も、部屋の片づけをしているが全然進まないまま年を越しそう。雑誌を手にして捨てるか捨てないかを見極めようとしていると、ついつい読み始めてしまう。2018年秋号の季刊誌某に写真家Fのインタビュー記事が載っていた。インタビューワーが「いい被写体はどうやって見つけますか」とベタな質問をしている。Fが『「これが絵になるな」とか「写真になるな」と日常的に思いながら街を歩いていたら、こんな無粋なことはない』と答えている。大御所のFさんの尺度から言えば、カメラを持って散歩しながら、たぶんそう思っているわたしは、無粋ですね。(笑) まぁでもいいや、Fさんの作品が素晴らしく身を削り、なにかを炙り出し、考えることを強いてくる、社会派の王道であることはゆるぎない。

 ペンという筆記用具からは、人生を問い直すような素晴らしい長編小説も、種明かしに興味がつきない推理小説も、余韻が粋な短編小説も、自己を見つめ直す詩も、いつの日かの自分に重なる俳句も、会社を辞める辞表も、何か書類を請求する請求書も、新しい人生のための履歴書も、将来人類を救うかもしれない生化学の論文も、日々のさりげない日常をつづった日記も、そのときの状況を申し述べた供述書も、ありとあらゆるものが書かれている。すなわち文字や絵を綴る用具だ。カメラも写真を撮る道具であり、なにが撮られるかは、無限の可能性と目的と用途がある。芸術という狭い領域の中なら、鑑賞者にとってとか表現者にとっての無粋ということはあるのかもしれないが。広くとらえれば、その無粋が個人にとっては癒しやストレス開放になっているかもしれない。そう考えると、いい写真とか悪い写真とか下手な写真とか、そんな区分けをすること自体が既存の尺度に根ざしていて無粋とも言えるんじゃないか。なんでも自由がいい。

 ♪それも 自由だと ビートルズは 教えてくれた♪

 今年は365日、ブログを書いてみようなんて(無粋なことを?)年初に決めて実行してきて、完遂しました。来年はそういうこだわりは持たないで、でももちろん、毎日とはいかないかもしれないけれど、書き続けます。

 ありがとうございました。