ガーデン

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スクリューマウントのCANON50mmF1.4をAPS-CサイズセンサーのMLカメラに取り付けて遊んでみる。ソフトな感じ。などと言う「感じ」で表現すると、価値がわかる。これが性能数値的に表現すると、中心解像力もフレアっぽさ(黒のしまり)も、ましてや周辺の解像度やその他の収差などはもっと、はなはだしく時代遅れで「悪い性能」と言うことだろう。でも「ソフトな感じ」が「悪くない」と思います。

とくに上の写真を、帰宅して取り込んでモニターに表示したときには、この場所がこう見えたということを忠実に写したこととはまったく違って、これがいま私が見たかった(写したかった)心が求めている光景に近いものだと感じて嬉しくなった。

見たかった光景はリアルとは限らないんだな。

『子供の頃に住んでいた長屋の庭には薔薇や木瓜や紫陽花が植えられて、その手前に小さな池があって、池と縁側のあいだには母が育てている、その年によって違う、ときにはチューリップのような花だったり、ある年には苺だったり、あるいはたくさんの実が取れた茄子だったりが植わっていた。もぐらが作るもこもこ盛り上がった道筋を見ると、もぐらそのものを見たいと思ったが、もぐらを見つけることはなかった。小学生の一年か二年のころに顕微鏡を買ってもらった。ある晴れた春の日の午後に、縁側で、私や母が庭から「これを拡大して見てみよう」と思って拾ったものを順番に見て行った。なにを見たのかはもう覚えていないけれど。想像するに葉っぱとか小さな虫の死骸とかもしかしたら土くれとか、だろうか。あるいは蝶の鱗粉とかだろうか。』

そう言う記憶を懐かしく思うための入り口としての写真として、上のような写真はとても(私にとって)親和性が高い。

そういう親和性が高い理由はいまだ不明のままだが、消去法としてリアルにそのままによく写っている写真が、そういう親和性が高いというわけではないってことだ。

もちろんよく写る最新の写真にはそうであるべき、それが大事にされるべき、相応の理由があるのだから重要なことだ。でもよく写らない古いレンズが、よく写らないことによって「ダメ」とは言えない。そこがまた写真の奥深さだと思いますね。

 

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