10月の夕暮れ

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最近はときどき朝起きると目が痛くて困る。眼科医の見立てでは黒目の表面がささくれ立っているとのこと。ヒアルロン酸ナトリウム点眼薬をまめにさすことを言われているが、症状が出ないまま三日四日と日が経つと、だんだん点眼の回数が減ってしまう。すると、ある朝、目が開けられないほど痛くなる。新型コロナウイルス感染症が収まらないので、満員電車を避けるために自家用車通勤をしているが、毎日片道50キロ走るのは疲れる。運転疲れが目にも影響するのだろうか。朝、目が痛くなった日は、やむなく電車通勤に切り替える。なるべく早く行って、なるべく早く帰ってくる。そうすれば少しだけ満員電車を避けられる。

電車通勤の日は、電車のなかで読書が出来る。自家用車通勤の日にはあまり読書が進まない。一方、自家用車で通勤するときには運転しながら音楽を聴ける。最近は、部屋にあるけっこうな枚数のCDから4枚か5枚を選んで、自家用車に持ち込む。その日の行き帰りで聴き終えることが出来るのは3枚くらいのことが多い。渋滞したり、選んだCDの演奏時間が短いと4枚になることもあったかもしれない。

先週は月曜日に眼の痛みが再発してしまったので、あとは電車通勤に切り替えた。

先々週は眼の調子は良かったので自家用車通勤をしていた。例えばある日に車に持って行ったCDはビリー・ストレイホーンの「ザ・ピースフル・サイド」と、ベルベット・アンダーグラウンドのバンド名そのままのアルバムと、チック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエバー」と、ザ・バンドの「南十字星」と、スティーリー・ダンの「エヴリシング・マスト・ゴー」だったが、助手席に無作為に積んで置いたCDを上から掛けた結果、ビリー・ストレイホーンとザ・バンドは聴けなかった。

聴けなかったビリー・ストレイホーンのアルバムを、いまこの文章を書きながら掛けてみた。1961年の録音だが、流れだす音は、さらにそれより数年古い感じを受ける。とても密やかな演奏だ。個人的に想いを寄せる誰かに向けて、あるいは自己に向けて、ひっそりと演奏されている感じを受ける。すなわち秋の夜長に自室で読書灯だけをつけているときなんかに流れているのがいい・・・なんて、なんか季節に酔って、季節に期待しているだろうか。ジャケット写真の煙草を指に挟んだピアニストをアップで捉えたモノクロ写真の印象もあるのかもしれない。

このアルバムをはじめて聞いたのは、京都の出町柳にあるジャズ喫茶ラッシュ・ライフのカウンター席に夜遅く一人で座っていたときだった。ほかの客はみな常連さんらしくて、常連さん数名が、一番奥にいる、常連ではない私を気にしていつもほどざっくばらんに話せていないような緊張感を与えてしまっている気がしていた。こんなのは大抵の場合勝手な思い込みで深刻になっていることが多いのだろうとは思う。が、当事者になるとそう冷静にはいられない。そのうちもう一人の中年女性のおばちゃんがやって来た。もしかしたらこの日のことはこのブログのむかし書いたどこかに書いてあるかもしれない。そしてその女性がなにか果物を持って来て、マスターに渡し、マスターが私にもそのおすそ分けを下さり、それを機に少しだけ場がほぐれたのではなかったか。

その果物が、リンゴだったのか梨だったのか、あるいは葡萄だったのかもう忘れてしまった。蜜柑だったかもしれない。

そしてその日はなにか季節外れの嵐が通り過ぎたとかで、何十年だか百年だかに一度の気温か雨量か風力かはこれまた忘れてしまったけれど、そういう日だったような気がする。差し入れの果物を食べながら、なんだか地球はどうなっちゃうのかね?なんて話をしたかもしれない。そういう話題がまたこの密やかな音楽に合っていた気がする。じぶんはどうやら安全なところにいて、異常気象をそういう場所から嘆いている夜。小さな集まりでちょっとした連帯が生まれたような。

いやなに、このブログを遡って調べると、こんな記憶はまったくもって変容されていて、まったくの作り話になっているのかな。怖くてブログを遡る気がしないですな。

夕方の砂浜を写真に撮ってきました。帰り道、早い夕暮れ、ぽつぽつと居酒屋やレストランや中華の店に人影が見えて人恋しい季節だった。

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