バス停留所待合室

f:id:misaki-taku:20210704214819j:plain

f:id:misaki-taku:20210704214852j:plain

1986年くらいから92年くらいまで、東急東横線都立大学駅近くにある事業所に通勤していた。その間に自宅は横浜市緑区から茅ケ崎市に引っ越した。都立大学駅のひとつ横浜よりの駅は、自由が丘駅で、そういう町をなんと表現するのかわからないけれど、人気のあるおしゃれなレストランやカフェやファッション関連の路面店がある(らしい)。ウィキペディアによると「欧州的」「女性に人気の街」「スイーツ激戦区」「人気の住宅街」などと解説してある。都立大学に通っていた頃は、都立大学もなかなか良い町だが・・・と言うより私鉄沿線の各駅はそれぞれに特徴が違っていて、でも共通の「私鉄沿線駅前」のごちゃごちゃ感があって、それが私にはみな面白いと感じるのだが・・・(話を戻すと)都立大学に通っていた頃には隣の自由が丘に立ち寄ることが多かった。会社関連の飲み会の店が自由が丘で選ばれることも多かったし、生意気に何人かの後輩を連れて自由が丘のカフェバーなるものに行き、フォアローゼズとかジャックダニエルの水割りを飲んだりした(弱いので一杯飲んで二杯目は飲みきれない)。あるときこうして飲んだあとに、飲み会が終わった人たちでものすごくごったがえしている駅前ロータリーを、その頃まだ発売されたばかりのスバルのレガシーツーリングワゴンがその車の周りだけ静粛をまとうように(と私は感じた)、そしてまるでスローモーションのようにゆっくりと目の前を通り過ぎたことがあった。そしてそのワゴンの荷室には渓流釣りの竿が一本か二本か、それだけが置かれていた。その後も渓流釣りをしたことはないけれど、あのときは突然レガシーツーリングワゴンに一目ぼれしてしまった。自由が丘駅からなんという名前だったかな神社のある方向に行ったところには武蔵野推理劇場と言う古い映画館があった。たぶん今は出版社のミシマ社がある辺りではないだろうか。武蔵野推理劇場で何回か映画を観たが、何を観たのか唯一覚えているのが、アメリカの宇宙開発とジェット機の歴史を交えて描いた「ライト・スタッフ」をその映画館で観たことだ。すごく好きな映画になった。武蔵野推理劇場がもうじき閉館し取り壊される(ウィキによると閉館は1984年とあった)と聞いたときには、休日に、当時住んでいた東急田園都市線市が尾駅にあった会社の寮から、ホンダのGB250を運転して武蔵野推理劇場までカメラを持って出かけ、映画館の職員の方に頼み込んでオープン前の時間になかに入れてもらい、観客席や映写室やトイレや・・・大急ぎでたくさん写真を撮ったことがあった。ときどき会社の課や部で「合宿」と称して、いつもの会社の会議室で会議をするのと違って、「気分を変えて新鮮な気持ちで」「電話やほかの部署のメンバーに邪魔をされず」「定められた議題を集中討議する」などのメリットがあるということから社外の会議室で仕事をする日があった。そういう会議室は区や市の管理する施設に貸会議室として設けられていて、五ケ所か六ケ所かよく使うそういう会議室があったがそのなかには自由が丘にある会議室もあった。自由が丘は上記のように新しくおしゃれなファッションタウンって感じだったけれど、線路沿いにあった「自由が丘デパート」と言う古い雑居ビル、小さな商店がたくさん入っているビルの二階か三階にあるとんかつの店があって、とんき、だったかな、合宿の昼にはそんな昔からあるとんかつやなどで食事を取った。ちなみに自由が丘デパートはいまもあるらしい。そのうち通勤する事業所が変わって、自由が丘とは縁遠くなる。たぶん二十年以上、その駅に降りたことがないんじゃないか。東横線にはいまもときどき乗るけれど、中目黒とか祐天寺とか学芸大学とか大倉山とか日吉とか、ここ数年のあいだに降りた駅もあるけれど、自由が丘の改札から外に出たことは、ずーっとない。あの頃は上記の自由が丘デパートのみならず、場末のバーや古い店が溜まっているような道筋もあったけれど、いまはそういう店は一掃されたのかしら。会社の先輩が行きつけにしていたラガーと言う雑居ビルの二階にあるバーのあたりなどもそういう路地だったが、その路地からバス通りに出てきたあたりに上の2枚の写真に写っているバス停の待合室があった。今見るといい感じの場所だと思う。当時もいい感じの場所だなと思っていたのかな、こうして写真に撮ったということは。カラーの方の写真は2005年だったかな、須田一政写真塾のグループ写真展に出した8枚か10枚かの写真のうちの一枚だ。そのグループ展は須田塾に入塾して最初のグループ展で、須田先生の指示通りに、先生の選んだ写真を先生の指示した並び順番通りに展示したのだが、その選択も順番もまったくもってそれがなぜ選ばれ、それがなぜそう並ぶのか、まったく理解不能だった。なにもわからないまま言われるがままに写真を展示したのだった。いまなら判るのか?と問われると、自信を持って「わかる!」とは言えないな。

この頃はコンタックスT(T2ではなく初代のT)にネガカラーフイルムを入れて撮ることが多かった。コンタックスTは良く映るカメラだったが、あるとき胸ポケットに入れたまま屈んだときにコンクリートに落としてしまった。それでも使えたのでしばらく使っていたが、シャッターのどこかの摩擦が増えて負荷が増したか、あるいはシャッターを駆動するアクチュエーターの力が落ちたか、巻き上げてシャッターを押してもシャッターがなにか音は立てるものの開いておらず、なにも写っていないというコマが現れるようになり、やがて三枚に一枚はそんなことになってしまった。コンタックスTが発表されたとき、当時はまだ高島屋だったか三越だったかの催し物会場で行われていた日本カメラショーの京セラコンタックスブースに行って、なんでこのカメラのシャッターボタンは人工サファイアを使っているのか?と聞いてみた。ポルシェデザインの小型ボディと高性能レンズは好感を持てるが、人工サファイアは写真とは関係ないだろうと思ったのだ。すると、アルバイトかもしれない対応した若い女性の説明員の方が、ターゲットとするお客様が富裕層の方なのです、といった回答をしたのでびっくりしてしまった。コンタックスTを買ったのはもう中古でしか買えなくなっていたころで(T2に移ったあと)、値段が高騰していた。たしか新品が12万円くらい(?)だったと思うが、その頃は中古で美品ではなく並み品でもその定価くらいの値段で売られていたと思う。コンタックスTには銀と黒があった。使っていたのは銀の方だった。

そうそう、書きそびれたが、レガシーツーリングワゴンは、その後、自分でも購入して乗っていました。