真名瀬のバス停

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葉山の真名瀬のバス停留所はなにかのCMのロケ地にもなったこともある。このブログにも何度かここの写真を載せてますね。白い真四角(に近い)建屋が「かわいらしい」し、今日は見えないけれど、この窓の向こうには空気が澄んでいると富士山も見える。この窓の向こう側にはちょっとしたテラスがあって椅子も置いてある。近所の人が座ってしゃべっているところによく出くわす。テラスは、もしかしたら右側の店の持ち物なのかもしれない。1970年代の55mmF1.2のレンズをマウントアダプターを介して、最新のフルサイズMLカメラに装着して使ってみる。こうして二枚写真を載せたけれど、実は今日は露出オーバーの失敗写真ばかりになってしまった。撮ったあとにいちいち液晶に今撮った写真を再生してチェックするということを、いまはもう全くやらなくなった。デジカメを使い始めた頃には自然とそうしていたかもしれない。もう背面の液晶画面は畳んでいて使わない。雨の日、雪の日、冬の日の入りの直後・・・いろんな日にこのバス停留所を撮り続けると定点観測でかつちょっとロマンチックな写真が集まるのだろう・・・なんてふと思いつくくらいだからきっとそんなことをやっている人は、この近所のアマチュアカメラマンには、きっといらっしゃることだろう。

定点観測で撮ることは、その場所のさまざまな表情を、定点という縛りをすることでより一層、浮かび上がらせる。縛りによって、こんなに表情が変わるんだよ、ということを明らかにする。もちろん、同じ定点でも、たとえばスカイツリーのような建築物が徐々に作られて行く過程を撮っていく作品を見ることも多い。これはもっと明確で「様々な表情」ではなく、過程の記録そのものだ。前者の「こんなに表情が変わる」ということを明らかにする・・・作者がそのことに意識的かどうかは関係なく・・・定点観測写真は、もしかしたら最新の一枚がいままでと違うことが求められるし、そうであることが継続のエネルギーになっているのではないかな、とふと思った。最初の頃は、たいていは撮るたびに新しい表情が簡単に見つかるが、ずーっと続けていると細部は違ってお大枠だといままでに撮りためた写真の中のある一枚との差が少なくなる。どんどん差が少なくなるからそれでも差を見出すように、あるいは差が大きくなるように、手を変え品を変え「あがく」。その努力がときどき新しく見たこともない瞬間を撮らせるかもしれないが、それはもう新しい「決定的瞬間」というわけで、もともと決定的瞬間に固執することが良いことなのか?自分でもその答えが不明なままだから、それが定点観測写真の成果ではないのかもしれない。いや、これはどこに価値を置くかでそれこそが成果かもしれないのだが・・・

定点観測のだいご味は、もしかしたら、ほとんど変わらない定点観測写真をじっくりみることで「差がない」と思ったり「差がこれしかない」と思ったりすることかもしれない。

結局「定点観測写真」という行為だけに名前が付いていて、その手法を使ってなにを示すのか、示されるのか、についてはなんの決まりもないってことだな。f:id:misaki-taku:20210213175947j:plain