他人事のように

 1950年に来日し、小田原城址公園動物園で暮らし、2009年に老衰のために亡くなった象のウメ子。逆光のなか、鼻を高々と振り上げている姿は、1990年頃の姿です。

 と、写真に象を載せておいて、それとは関係ありませんが、先日の三連休の最終日に武蔵野美術大学美術館で開催されていた写真家/芸術家/芸術評論の大辻清司の展示「生誕百年大辻清司・眼差しのその先」を観てきました。展示の後半には、いわゆる街角スナップと短い時間のなかだけど定点観測的な視点も含まれた日常風景の写真があり、いろんなことをやり、いろんな作品を遺した大辻清司のほんのひとつの作品なのだろうけれど、いただいた解説冊子にこんなことが書かれている。

「ここにあるどの写真も、彼が意識で包んだ部分などたかが知れています。彼とこの写真を結ぶ糸は、この写真が生まれる契機となった彼の動機と、その動機に従って画面作りを導くほんのちょっとした方向づけです、あとの大部分は、現実の緻密な細部校正と時のさだめ、偶然の出会い、といったものです。だから撮影者自身ですら、自分の写真を他人事のように楽しむことができる。写真の面白さとは、こういう撮影者の意識からはずれてしまっている大きな部分の働きなのではないか、と思うのです」

これは大辻が1975年9月号の朝日カメラに書いているそうです。

 このブログで過去のデータを探りに行っては「自分の写真を他人事のように楽しむ」ことをしているので、とても腑に落ちます。この象の写真だって、久々にネガファイルを出してきて、ネガを蛍光灯に透かせて見て、こんなの撮ってあったよ・・・ともしかしたら撮影以来はじめてこうして写真にしている。それをわたしは確かに「他人事のように楽しんでいる」と思います。

 大辻の展示は10/1まで。