確率を覆す

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3月の会社の定期診断で肝臓のγGTPの値が悪かった。しかしその後の別の病気の発覚と手術とその後の期間のおよそ3ケ月、その間、(それまでもほとんど飲めないもののときどき飲んでいた)アルコールはまったく飲まないようにしていたし、体重も少し落ちたし、ウォーキングはほぼ毎日きちんとやっているし・・・これはγGTP値が良い方向に変わってないか?と期待して、肝臓の血液検査をしてもらった。結果、会社の健康診断のときの値から大きく改善していたが、正常値の70以下までは至っていなかった。これは自分の性格によるところが大きそうだが、もっと一気に改善が進んでいると期待していたが、そこまでは行っていない。それでも全体傾向としては改善はしていた。この一気に良くなっているんじゃないかというのが、最初は淡い期待だったかもしれないのに、いつのまにか大きな期待となり、そういう結果が出るに違いない、きっとうまくいくだろう・・・と思うってことが、これはとても些細なことだけど、いま世の中の報道でときどき聞く「正常性バイアス」に類似しているのかもしれない。

正常性バイアスの話とちょっと似てるかもしれないが違うかもしれないはなし。スポーツ観戦をしていて「期待」さらには「夢のような結末の夢想」ではなく、もっと冷徹な確率分析をして出てくる勝敗の確率が、あるときにその通りにならず、ちょっと上記の「期待」や「夢想」に近づいた結果、いわゆる「金星」が生まれる、もしくは確率通りの勝敗結果でもその「勝つ」ことの中身に「新記録」(期待を上回る)も生まれる、すなわち金星や新記録は「信じられない」を伴っていて、そこに歓喜が生まれる。確率的に高いことが仮に「日常」なんだとすると、そこから脱したところ(非日常=確率の低いところ)に歓喜となる結果が控えている。それを端的にときどき(飽きる前に)起こしてくれるのが各スポーツの、時間とともに練り上げられたルールの妙にあるのかもしれない。まぁいろいろな意見があるようだけれど、日本(東京)が手を挙げてグローバルなイベントを主催成功し歓喜をたくさん生み出しますよ、そのためにおもてなしをしますよ、と言って押しつけらえたわけでなく「誘致」したのだから、反対賛成とは別のところでやる以上はしっかりと推進遂行してたくさんの歓喜を生み出してもらうべく、選手には力を出し切って欲しい。リスクを回避してこの歓喜につながる結果がいくつも生まれて欲しい。でもその計画に良いバランスが成り立っているか、近未来のリスクの予想と評価にも楽観と悲観(バランスが成り立たず惨憺たる感染状況に陥るかもしれない)があるから、そこでまた激しい論争が起きるのだろうな。

ただ、これはスポーツになにを期待し、興味があるかないか、人それぞれなんだけど、この閉塞した世の中の状況のなかで選手が起こす歓喜は、たぶんだけど、ひとときでもストレスを和らげてくれることもあるだろう。それはまさに病を得てしまったひとにもその方々を必死に看護している人の心にもそよ風くらいにはなって、一瞬良い効果をもたらすこともあるだろう・・・などと書くと、それはそういう人もいるけれど、それを苦々しく思ってむしろ苦痛になる場合だってあるぞ!と言われてしまい、それも確率的にはゼロでないのだろう・・・となると堂々巡りになってしまう。

結局あれこれ考えるとひとつの結論などないんですね。。。

 

今日(昨日?)は夏至。午後4時でも強い陽射し。ファミリーレストランCOCOSの入り口のひさしが金色に輝いている(コンパクトデジカメのラチチュードだとそのきらきらした金色が飛んでしまって見たときのようには写らなかった)。ありふれたそのあたりの風景なのに、その場にいるときには、そのひとときが「いい時間」に思えるのだった。