16:00からの一回り

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 焦点距離がフイルム換算100mmくらいの中望遠レンズが付いているコンデジをぶら下げて、在宅勤務のウェブ会議のあいだの時刻、16:10-17:15に近くの畑地を久しぶりに一回りしてくる。葉を落とした低木に西日が当たっている。そんな枝にカマキリの卵らしい塊を見つけた。雪国では、なぜかカマキリは来るべき冬に積もる積雪高さを知っていて、絶対に雪に埋もれない高さに卵を産む。そういう話を読んだか聞いたかしたことがあったか、そうであれば、昨秋の新潟や長野のカマキリはずいぶん高くまで上がらなければならなかったのだろうか。南関東のカマキリはそういう努力はしなくても良いのだろうが、それでもそれなりの高さに卵があるのだった。子供の頃は自宅の庭で起きるいろいろなことを見ていたと思う。卵から小さな小さな白っぽい子供のカマキリがたくさん、零れるように湧き出るところも見ていたことがあった。さらに歩く、小さな土地になにかが植えられて、そこにたくさんの札が立ち、西日の角度で私から見ると真白く光って見えた。なんだかアンセル・アダムスのフェルナンデスの月の出の十字架のようだ・・・というのは飛躍しすぎかしら。近くの幼稚園?の子供たちが植えたのか、子供の名前やクラス名が書かれているのかもしれないが、それを確認に回り道をする気も起きない。

 畑に植えた何かをしっかりと一歩一歩踏んでいるおじさんがいる。麦踏みという単語を思い出す。いしいしんじに「麦踏みクーチェ」だっけ、フーチェかな、そんな小説があったことを思い出す。読んだことは覚えていても、物語はなにも覚えていないのだった。長靴で柔らかい(ように見える)土をギュッギュッと踏みながらゆっくりと歩くおじさん。畑地を一回りして、17:30からの会議に間に合うべく帰宅。帰路には大きな銀杏のある神社がある。100mmの焦点距離ではとてもフレームに収まらないのだった。

 夜、テレビを観ていたら、等閑視という単語を使って話している人がいた。等閑視という単語、過去、一度しか出会ったことがなかった気がする、だから二度目じゃないかな。一回目はいまから50年前に書かれたとある技術レポートに、とある機能を開発すべきという技術者の主張が書かれているところで、ユーザーの力量に委ねて等閑視しているべきではないとあった。それで、そのとき辞書を引いて「無視して放っておくこと」と知ったのだった。ときどき新しい単語にいまでも出会います。

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