あの頃は

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 あの頃は、通勤電車に乗って、毎日毎日会社に通っていた。電車は混んでいて、つり革につかまって揺られている。たまに、週に一回か二週に一回か、目の前に座っている人が途中駅で降りると、ラッキー!とばかり席に座った。乗換駅で、次に乗る電車が隣のホームに入線してくるのが見えると、間に合うように全速力で走ったものだ。ホームの端にある階段へ、登り階段を一段飛ばしで、跨線橋をまた走り、下り階段も一段飛ばしで・・・。運よく飛び乗ることが出来ても、息が上がって、血の気が引き、青くなって隣駅で降りたことも二度くらいあったな。電車通勤で良かったことなんかあっただろうか?つり革につかまって、ぼんやりと車窓を見ていると、ときどき気になる風景や建物が見えたものだった。フレックスタイムを利用して午後3:00に早上がりした日に、そういう気になった場所へ行ってみたりもした。すなわち通り過ぎていく車窓風景はサムネイル画像のようであって、そのサムネイルから選択した場所にちゃんと写真を撮りに行っていた。

 今日、2022年3月9日水曜日の昼休みに、いまではナビがないとどこにも行けない、ナビ普及の前は県別地図帳などを見て初めての目的地に行ったものだったが、いまそうしろと言われてもとても出来ない、といった話を同僚とした。いまはナビ頼りだから目的地にどこまでどっちの方角からどう近づいているのかなんてよくわからない。あとおよそ300mで左折で、この二車線の道路は左にいたほうがいい、というような車線の指示までナビの言う通りだ。考えることなく従っている。そのうち考えることが出来なくなる。指示命令通りにただなにも考えずに行動するなんて怖いものだと思うが、例えば運転だってそうなってしまった。きっと目的地には迷わずに到着するけれど、彷徨ったり引き返したり、あるいは俯瞰した地図上のどこにいるか知りながらハンドルを握ったり、そういうことがなんらかより多くの考慮すべき、というか、解決すべき事象や偶然の出会いやをもたらすなかで大人は大人としての分別を養っていたんじゃないのか。

 やしなう・・・なんて言葉は滅多に使わないな。養う。科学は進化したのだろう。主義は進化したのだろうか?便利と言われることはたくさんたくさん提供されてきた。便利な世界で主義を学び、進化した科学の恩恵を受けて、よりよいとされた世界で生きている。だけど、それでひとりひとりの持つ幸せの平均値は向上したのだろうか?向上してない気もする。それは大人げない人が増えているからかもしれない。