河川敷

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 今日は在宅勤務で、朝7:00から夕方18:00過ぎまで、食べるものを探しにキッチンへ行くのとトイレに数回、それ以外はずっとPC作業の椅子に座り続けて、自分が来週プレゼンするときに使うパワポ資料を作成していた。作業自体はスムーズに進み、聴いてもらう方々に理解いただけるだろうか?とあれこれ考えながら進めるのは、たぶん嫌いではないのだろう。けれど、夕方になりふと気が付いたらものすごく疲れてしまったようだ。写真は2010年の3月27日に撮ったようだ。この写真もその日の画像をファイルしてあるフォルダーにあるほかの写真も、一枚とて記憶になくて、こんな写真撮ってたんだぁと初めてその写真を見るような気分になるのだった。このブログは、2008年頃から書いているので、この写真を撮った日のことが残っているか調べてみたが、この日はブログを書いていないようだった。2010年3月、私は京都へ遊びに行っていた。三泊くらいか。百万遍の中華華祥(で漢字が合っているのかな?)で昼飯を食べたようだ。カウンター席がコの字かL 字にあって、席の背中側の壁との隙間がものすごく狭かった記憶、そんな些細なことの記憶が残っている。何を食べたか忘れてしまったが、友人のおよそ20歳私より若いHさんと、さらに私より30歳若い学生3人と、一緒にいて、一緒に中華を食べて、そのあと京都の町をカメラをぶら下げてぶらぶらと歩き回ったのだった。華祥はこのときは百万遍の交差点すぐのビルの二階か三階にあったが、いまはもう少し元田中駅の方に移っているようだ。京都では駱駝といったかな、ものすごく山椒の効いた辛い中華料理(でも美味しい)を食べたこともあったし、一方でマダム紅蘭?で、もっとずっと優しいふんわりとした味の中華も食べたことがある。写真を見直していたらそんなことを思い出した。

 いまはこの河川敷(この河川敷は京都ではなくて多摩川のようです)に行くと、これと同じように雑草なのか芝なのか、新しく緑が芽生えているのだろうか。今年は1月2月は寒かったようだが、桜の開花はものすごく早かったから、それは3月になり急に暖かい日が続いたということだろうから、きっと河川敷にはこんな風にもう新しい緑が現れているのだろうな。草木が四季とともにいつも通りのサイクルで生きているそのことを示して、そのときどきの季節を示していく。毎年のように思うことは、いまのように春になり「一斉に」自然が変化する、その変化率がいちばん大きなときに、もっと目を凝らして、その変化を見定めたいと思うこと。だけど今日のように一歩も外に出なかったりで、私はその変化を必ず見過ごしていて、ただ、桜が咲いたとか、わかりやすいことだけに一喜一憂しているんじゃないかな。

 写真に写っている、川の流れの方向へ歩いている男性は、なぜそちらへ向かったのかな。ただちょっと川の流れを間近に見たいと思っただけなのか、それともなにかもっとはっきりした目的があったのか。このまえポッドキャストover the sunでスーさん美香さんが、感受性というより感受できる容量が減ってしまって、大きく心を揺すぶれれるとそれを柔軟性を持って受け止める心ではなくなってしまっている、だからいろいろなことに接して揺すぶられてしまうことを警戒してしまう、というようなことを言っていたな。感受性はなくなるから、それに意識的になってなくならないようにいたい、というように考えていたが、この容量が減ったから警戒してしまっていろんなことを受け入れなくなっている、という分析は私にとっては新しい指摘に聞こえたな。

 河川敷を歩きながらいろんなことを思索する、その思索のネタも希薄で、どんどん何も考えないまま、ただ周りの風や鳥の声や見えた花々や草木に季節を確認しているだけになっている気がするが、これなんかも思索するなど青臭いとも言えるかもしれない、

 まずは五感で季節の変化を感じていることは、まずはまずは、それが大事だろう、と自分を納得させた(笑)