誕生日から半年たった

 昨日に続いて、低画質に作りこんだ写真です。日向のなかに、露出オーバーのなかに、かすかに向こうを向いた人が立っていた。大志を抱いて将来を夢見ているわけではないに決まっているが、写真の中の点景としてそこに定着されていると、こんなありふれた街の片隅のガード下のくねった道の先で、「わざわざ」日陰ではなく日向に踏み出して立っている人に、野望とか計画があるように見立てたりすることも可能だ。見立てるってことは写真の見方の一つだと思う。

 さて7/7七夕です。昨日と今日生まれた方、誕生日おめでとう。一人は母で7/6で90歳になった。

 最近二度ほど、このブログに二十歳の頃に書いたショートショートの物語を踏み台にした文章を書いてみた。夢見るひ弱な文学少年ぽかった二十歳の頃の私でしたね、恥ずかしい。あの頃、SFマガジンという月刊雑誌があった。地球上でちょうど経度で180度ずれた場所に住んでいる男と女がいて、男が日の出を迎えるときに女は日の入りを迎え、男が正午を迎えるときに女は日が変わり、男が夕焼けを見ているときに女は朝焼けを見ている。そんな二人には、(いまのようにスマホなどという簡便で万人が持っている通信端末はまったくないから)知り合う術もないのだが、それぞれが、ちょうど地球の反対側に「知らないけれど、でもあの人」が生きていると思うと安心して生きていける、強く生きていける。すなわち、出会ってなくて、お互いを知らずとも、そこにいる、ということを信じているだけで恋愛が生まれていた・・・だっけかな、超甘ったるい抽象的ファンタジーを書いて、送ったことがあったがもちろん採用されることなど起きなかった。そのうちにその思いが電波に姿を変え、ある日二人はより具体的な像として相手を見ることが出来るようになっていき・・・なんてことまで書いただろうか?覚えてない。1977年くらいにそんなのを書いていた。あの頃はブラッドベリが大好きだった。

 半年のあいだに地球は182回か183回、くるくると自転をしながら、公転軌道の円を半分だけ回って来たわけですね。

 春分夏至秋分冬至の日になったり、自分の誕生日やその半年後の誕生日になったり、そういう日になると、頭のなかに宇宙という空間に浮いている太陽と地球と地軸の傾きの関係の立体配置が思い浮かぶ。心に浮かぶのではなく頭に浮かぶっていうところが理科系っぽいんですね。十五年くらい前に、会社の十歳くらい先輩の技術の方に、自分はそういう天体配置を夏至の日が来ると思い浮かべるんです、と「告白」したら、うんうんそういうもんなんだよ!ととても共感された。そして先輩の出身大学の校歌だったか学生歌に、そういう太陽と地球の関係について歌われる曲がある、とおっしゃたと思うのだが、それがどこの大学のどんな曲なのかはもうわからない。本当にそんな曲があるのだろうか?

 昨日のブログに「低画質」が懐かしさを呼び「記憶写真」(記録写真ではなく)に向いているようなことを書きました。そのあと、なんとなくフジファブリックの「若者のすべて」のPVをスマホで見ていたら、演奏するバンドの比較的高画質な映像にときどき低画質な花やらなにやらを撮った動画、それはこの曲が夏が終わり最後の花火の日になったと歌うことで真夏がすでに思い出になりつつある晩夏の切なさを歌っているようなことの表現なのだろう、そういう動画が差し込まれていた。昨日と今日と、低画質支持者になっています。