偶然の低画質至上主義

 長いあいだこのブログを書いているなかで、以前に書いたことは忘れたりうろ覚えのまま、繰り返し同じような写真のことをつらつらと考えていて、ときには同じことが繰り返され、ときには以前とは真逆のことを感じて書いているんじゃないだろうか。

 この写真は一昨日、東海道線(東京-熱海)の車窓から撮ったもので、この直前に道路の下を電車がくぐったときに影のところでシャッターを半分だけ押して露出がロックしたのだろうか、道路を抜けて明るいところに来てシャッターを押したら露出オーバーになり写真が白く明るく写った。高いポールとその間に張られた網によって、線路や向こうのマンションの駐車場にサッカーボールが出ないように囲ってある、そのなかの土のサッカーグラウンドで子供たちがサッカーをしている。水色のシャツを着ている子供が多いから、チームユニフォームなのかもしれない。だけど監督役の大人は見えないし、人数もサッカーをやるには少ない。というこれだけでも、ではどういう経緯なの?と写真に写った前後の物語を推理したくなる。

 あるいは、上に書いたように露出はオーバーで、最近はデジカメでもスマホでも、だいたい見えた通りにきれいに再現をしてくれるから、こういうリアルでない(露出オーバーな)写真になってしまうことは少ないな、と思う。ではリアルではない別の見え方をする写真がすべて失敗なのかというと、それは選ぶ人や見る人の感覚であって、リアル至上主義の人にとっては問題外の写真ではあるが、先ほどからこの写真を選び、この写真を若干画質調整し、そうして眺めているわたしは、懐かしいなあ・・・それはこういう写真がフイルムっぽいという意味ではなくて・・・これを見ていて乾いた土のグラウンドに立った土埃の匂いとか、向こうの方で友だちが何人もサッカーボールを追いながら走り回っているのに、そこに参加できずに一人(そこはまったくもってオフサイドの位置なのだけれど)ゴールの前でぼーっと立っていたときのこととか、いろんなことが浮かぶのだ。これは「偶然の低画質」至上主義だ。

 考えてみれば二次元平面に何か真白ではない色の濃淡や形があるということで括れば、絵も写真も同じで、そう考えると、写真にだけいわゆる写真としての「高画質」であることが正しいことの前提のように思うのは狭量だ。

 森山大道が「写真よさようなら」と言いたかったのはそういうことなのか・・・可能性を広げることを示したかったのかもしれない。


追伸

調べたら、ほとんど似てることを書いてる日がありました。https://misaki-taku.hatenablog.com/entry/20180829