湘南

 高校の夏休み中にクラスで企画したイベントのために夜になったばかりの時刻に、海沿いの国道の街灯が届かないような防砂林の海側のサイクリング路に集まるのは、参加の意思がはなからなかったり旅行中のやつを除くと女子十人に男子が十三人といったところで、これはクラスの六割くらいだろう。制服姿しかみたことがない学校では目立たないやつが、黄色いビッグTに夏休み限定で短い髪を赤く染めてきたり、おとなしい彼女が身体にぴったり貼り付くような真白のタンクトップを着てくるから、それだけでも歓声のネタとなり、会わなかった二十日のあいだに流れた時間が、また新しい関係を作り出す。イベントは花火だバーベキューだというような定番に抱き合わせで、星を見上げる時間が(一体誰が考え出したのか)最後にあり、その頃には皆砂浜が暗いことを良いことに三々五々うまい位置取りでちらばっては、なかには本当にそのままフェイドアウトする今日出来たばかりのカップルがひと組かふた組はいるだろう。そのフェイドアウト組になることがなくても、夜のなかで二人だけの時間が取れれば、そのお相手が目下のそのときに「悪くない」と思えれば、それでワクワクできるのだ。

 砂浜の防砂林寄りには月見草が花を開き、誰かがそれを一輪摘むと、お相手の髪にさす。違う大学生のグループから、へたくそなフォークギターの巡回コードの伴奏でずいぶん古い恋の歌を歌っているが、ほどよく波の音が被ってくれるからその下手くそさこそが最適だと思う。そしてサビのシンコペーションで、この機を逃すまいと手をつなぐが、すぐに振りほどかれてしまうから「ダメかあ!」と叫び、一人波打ち際まで走り降りて、夜光虫の光がぼんやり照らす波へと数歩入ってしまえば、それでよいだろう。

 防砂林のなかからボリュームをあげて巨人広島戦のラジオ放送が聞こえてくる。両チームのエースの息詰まる投げ合いは五回まで進んで両投手ともにノーヒットを続けている。その放送を聞き取ろうと、防砂林に行き、顔中髭だらけの仙人と話し始める変わったやつもいる。

 夏らしさとは暑さをやり過ごすための暮らしの知恵に寄り添っていて、エアコンの効いた室内にいて暑さをやり過ごすことでは得られない「らしさ」がある、と定年間近の現代国語の先生が言った。その例として、団扇、蚊取り線香、蚊帳、夕涼み、水まき、と。そんなのほとんど使ったことがないや。だけどこうして夜の海にクラスメイトが集まれば、それが一番の夏らしさだった。別にじいちゃんが懐かしんでいるトランジスタ・ラジオではなくたって、スマホからだって最新の音楽は探せるに決まっている。電波をキャッチする場所はスタバやソフトバンクのフリーWi-Fiエリアやだから、高い場所や広い砂浜の方がよほど電波をキャッチしやすいといって、夜の海や授業中の校舎の屋上へトランジスタ・ラジオを持って電波をさがしに行くなんていう素敵なこと(だとわかるよ・・・)は不要になっちゃったけど、だけどどこの国のラジオを聞くかは、グーグルストリートビューでどこの国の道に行ってみるかと同じくらい面白いという、そういう新しいやり方に夢中になることだって素敵だろう。うちのじいちゃんはわかってくれる。

 月が出て海原を照らし、目が慣れれば十分に辺りの様子が見て取れる。夏の終わりにイカ釣りの船の灯りが沖に並ぶ。数はまだ少ないが今日はもうその灯りがあった。国道の自動車の走行音が赤信号で途切れることがたまにあり、すると、国道の向こうの住宅街から鳴き交わしているあちらの家とこちらの家の犬の声が届くときもあった。風は止まっている。凪の時刻がしばらく続く。昼間はあれほど強い海風だったのに。

 一人の少年、せいぜい十二歳くらいだろうか、彼の背よりずっと長いボードを浮かべ腹這いになって波と遊んでいる。目が慣れて月が出てきて、いつから彼はそこにいたんだろう。サーファーの少年はただ一人で海の上だ。大人のサーファーたちはもう家に帰ったり行きつけの居酒屋で焼酎を飲んでいるのか。

 手をつないだらすぐに振り払ったくせに、いつのまにか隣に来て一緒に寄せては返す波に足先を浸している。月のなかに何が見えるかって?そりゃあ大昔は兎だったが、いまはなんと答えるのが正解なのか?必死に考えているうちに今度は彼女の方から手を繋いできてそれは天にも昇る気持ちだったが数秒で掌は離れていき「私は蟹だ、しかも半身」と言って笑った。飛行機に位置を知らせるために、空に向けて光線を旋回させているライトが隣町との間を流れる川の河口付近で回っている。赤い星はさそり座、琴座はベガ。わし座はなんでしょう?飛行機が南の空から現れて、こんな風などこにでもある何千何万の物語が進む町の上を通り過ぎる。そのとき、どういう条件でそういうことが起きるのか、急に一陣だけ強い風が吹き、それによって防砂林が揺れて、夏休みになってからずっと髪を伸ばしている何人かの女子の漆黒やこげ茶の髪を持ち上げ、くしゃくしゃに乱した。ギターの音が止まり、別の誰かの手に渡り、巡回コードのダウンストロークではなく「エデンの東」なんていうめちゃくちゃ古い映画のきれいなテーマソングが奏でられる。こちらは蟹の半身で笑い転げているけれど、もしかしたらあいつはいまあの子とキスしたんじゃないかと思い、ちょっと悔しい。

 その強い風が一回だけ、きれいで大きな波を起こしたのだ。波間に降りてゆらゆらと微睡んでいた鴎が何羽も一斉に飛び立ったあとに、サーフボードで遊んでいた少年が両手で波をかき、そして、きれいにすっと、ボードの上に立った。からだの重心を微妙に調整して、波を下り、一瞬だけ波と一つになれた気がする。それは彼にとってまたひとつ次のステップに行けたと実感できる成果だったから満足だ。そのひとつの波を待って、そのひとつの波に乗れた少年はもうあとは帰るだけだ。高校生のにわかカップルの横を通り、大学生のギタリストの後ろを抜けて、防砂林の仙人にはちょっと頭を下げ、信号が彼を待っていたように青になった国道を渡って。夕食は何だろうか。たまには家ではなくて、あの休日には長い列ができる、澄んだ酸っぱいスープのわかめ入りタンメンを食べたいなと思ったり。

 

 1970年代中頃(私は大学生の頃)、実家の近くの中学に、授業を抜け出してはサーフィンをしに行く男子がいて、先生も知っていて黙認していたらしい。噂だから真実は知りません。そしてその十年後に彼は名の知れたプロサーファーになったと聞いたことがありました。いまは学校を抜け出したりしなくても、サーフィンはオリンピック競技ですらあるんだから、そういう先駆者の時代よりも「環境」はいいのかもしれない。だけど上の話はそんな少年のイメージを今の時代に持ち込んでみました。

 私はサーフィンもしなかったし第一ほとんど泳げないから海辺の町にいるのに、やっているのは写真を撮ることと、むかしは少しだけ投げ釣りをした程度です。

 ビーチ・ボーイズでサーフィンをやっていたのは一人?二人?ブライアン・ウィルソンは家にこもって曲作りに夢中だったとか?あやふやな記憶だけどそんなこと読んだことあります。

 最近行きつけのコーヒー・スタンドに集ってくる人たちの多くは、どこか別の町からこの町に「サーフィンをしながら仕事をする」ために越してきたという人が多い。まぁ店主がサーファーだからそういう人が集まって来るんだろう。

 夜の海の話を書いたけれど、載せたのは昼の海の写真でした。人が重ならずうまく配置される瞬間を撮るって、けっこう待つんです。

 桑名正博の「夜の海」は名曲。