午後四時過ぎて

f:id:misaki-taku:20211114192446j:plain

日曜日、快晴。午前からずっと午後三時半ころまで自室でパソコンの前に座り、あれこれ写真データを作っていた。写真同人ニセアカシアの次号、すなわち9号のための習作なども作ってみた。習作のタイトルは「芒として」。そういう気分なのだった。その後、自家用車を運転して相模川河口近くの運動公園の駐車場へ行く。そこから河口へ。さらに海沿いの遊歩道を少し東へ歩いてから、国道134号線沿いに戻る。5月頃、手術後のリハビリのためのウォーキングで良く歩いてたコースだ。あの頃は意識的に歩くことをノルマとして課していたから術後に身体の不自由は若干あったけれど、さまざまな数字(血圧とか血糖値とか肝臓の各指標は)より健康的だったのではないか。今の方がずっと元気なのに、もう身体を使うことに意識的ではなくなってしまうから、たぶんそういう数字はまたもや元の木阿弥であまり褒めたものではないんじゃないだろうか。今日も、どうしようかな、面倒くさいな、とかなり迷いがあったが、とにもかくにも出かけたのだ。出かけると言っても車で10分くらいで、あとはそこから一時間ほど歩く。たいしたことない。

台風や低気圧で高波が来ているときにはこんな大きな石も波で動かされ運ばれるってことだろう。砂浜に大きな石がごろごろとある。なんだか枯山水の庭のようではないか。風が作った砂紋は、枯山水の白玉砂利に熊手で描いた砂紋にも似ている。

日が沈む。富士山のシルエットがきれいだが、今日は富士山を撮らない。天邪鬼な気分なのだった。海沿いの遊歩道は防砂林の横を通り、その防砂林にはセイタカアワダチソウなども生えたブッシュにもなっていて、まだ虫の声すら聞こえる。微かに残照のような虫の声だ。日の暮れる西の空を見に来る近所の方は多い。皆さんスマホで写真を撮っては戻っていく。習慣となっている散歩なのだろうか。なんだかそういう習慣が持てる場所に家があるのはいいなと思うが、実は私の実家はそんなことが可能な場所にあったが、海の近くに住んでいてもそんなに頻繁に海に行くわけでもなかった。投げ釣りのときだけだった。でも今の年になって実家に住んでいたら、毎日の習慣として海へ行くようになっていたかもしれない。そんなことはわからない。

f:id:misaki-taku:20211114192501j:plain

f:id:misaki-taku:20211114192517j:plain