もう、なれない

 日々が淡々と過ぎて行く。会社に行き仕事をして帰ることを四十年以上続けている。

 若い頃は、会社員として満員電車の吊り革に掴まって、たまたま近くに来た人と押し合いへし合いしながらも、片手に持った文庫本を読んでいた。ある日、横浜駅に電車が着き、大勢の乗客が降り、大勢が乗ってくる中で、身体を押されたり引っ張られながらも吊り革の手を離さずに立ち、人が行き交うホームをぼんやり眺めながら、あれ?私はもう、音楽家や作家や詩人やカメラマンや建築家やデザイナーに、そういう別の仕事にもちょっとの努力でなんだってなれるぞ、と勝手に根拠なくも思い込んでいたことが、全くもってそんなわけない、あり得ない、才能もなければ若い時間を越えてしまった、そんな絵空事というのか妄想は、諦めるしかない、というかもう不可能、と思った。思った、というより、わかった、という感じだった。それで少しびっくりしたのだが、それでも、会社の帰りにどこかの店をひやかしで覗くとか、電車から見えた気になる街角を撮りに行くなどして、やりたいことを自由気ままにやっていた。楽しくて、淡々とはほど遠い。なにかに夢中だったり自分の流行があった。

 あの頃は読書でも、パソコンでなにかを書いたり画像処理をして写真を作り込むことも、みなとても短い時間で出来た。画像処理ならばフォトショップの作業をスピードを持って次々とこなせていたのだろう。今でもフォトショップで画像を処理するが、一つ一つの操作が半分くらい遅くなってる気がする。それが、ここ数週間は、そういうふうに会社からの帰宅時間でもなんでも、仕事以外の何しても構わない時間にただぼーっとしていて。まぁ、この文を書くことは出来るのだからそんなに悲観的になるほどのことではないかも。

 でもとにかく時は淡々と過ぎて行ってしまう。周りの自然、都会の中にもある自然は、着々と季節を進めていて、たとえば曼珠沙華が咲いている。だから、淡々にせず、もっと飛び回り、たまには右往左往して焦ったり急いだりして、とにかく淡々とではなくおっちょこちょいも良いのではないかい。淡々と不機嫌にぼーっと過ごすよりは。

 でも、ひとりでは、片手落ちのこともある。