写真に物語が写ること

 十年前の3月9日、小田急中央林間駅西口前。今日も古い写真を見ていて拾い出した写真。フイルムカメラで撮ってあったが、この日に持っていたカメラも装着していたレンズも覚えていない。自転車が右に曲がるために傾いている。こういう動的な一瞬が写し止められていると、十年前にこの瞬間が、この1/125秒なりの露光時間が今現在だった時間がここに流れていた、そういうことを考える。自転車の横にこちらに向かう二人連れがいて、私のすぐ前の左側にはダウンベストを着てキャップを被った初老の男が向こうへ歩いて行く。こういう人の配置が写真的にいいとか悪いとかではなく、これと同じ人の配置が起きたのはこの一瞬が唯一だったわけだ。そしてこの瞬間が今だった、その時刻よりほんの数秒前まで私はこの位置より後ろを歩いていて、そのときにはこの瞬間は未来だった。写真を、とくに撮られたときがもうずいぶん前の、だけど自分自身がそこにいて撮った写真を眺めていると、こういう風に時間のことをよく考える。

 同じ場所を今日時点のグーグルマップで見ると、この化粧品店が同じ佇まいで写っている。写っているがシャッターが降りていて、閉店したのか、たまたまグーグルのカメラを積んだ車が通った時間が開店前だったのか、はたまた定休日なのかはわからない。上の写真は撮影者である私が、たぶんシャッターを押す瞬間をファインダーの中で見定めて、ちょっとは人の配置を意識している。グーグルストリートビューの写真はそういう欲目の意識がない。それでも化粧品店の前に厚いコートを着た女性がなぜか立ち止まっているのが写っていて、なんでここで止まったのか?と考えたりする。写真に写ったものからなにかあらためて物語を読み取ろうとすると・・・そうでない写真の見方もあるだろうが、そういう写真の見方もある・・・無意識的な撮影成果であるグーグルストリートビューの写真でもそういう見方ができる。

 物語があることが作品のひとつの成果というか形態であるとすると、そこにある世界から一部や一瞬を切り取るという、真っ白なキャンバスから絵を描いてキャンバスを埋めるという明らかな創作行為と比べるとなんだか胡散臭い写真という表現行為ではあるが、それでも撮影者の瞬間と構図の選択に作家性があるから写真も表現であり芸術だ、という論法があるのだろうが、グーグルストリートビューでも物語が写ると知ると、それだって怪しくなる。

この通り、いい写真ですよ、無人撮影のストリートビューは・・・