眼の前の空間にカメラを向ける

 十年かもっとむかしに自分が撮った写真は、フィルムで撮ったものでも、スキャナーを介するなどして画像データとしてHDDに入っていれば、USBにHDDをつないですぐに見ることができる。そういうむかし撮った写真を眺めていると、いまと変わらないなあと思える写真 ~例えば広い場所に大勢の人が小さく写っているような~ そういう写真がある一方で、ここを撮ろうと意識してこの写真を撮ったんだなというのが一目瞭然でわかる「モノ」や「明らかにここを撮りたかったんだなとわかる主被写体」に肉迫して撮った写真も多い。

 一方で。この上の写真は鎌倉のレンバイと言われる野菜市場で少し前にフイルムカメラで撮ってあった写真。キヤノンA1に、だいぶがたが来ていて本来の性能ではないように思える28mm f2.0で。自分が撮った写真なのに、むかしはこんな写真は撮らなかったよなぁ……と思います。目の前にある空気の空間、曖昧な透明なソコをぼんやりと見ている……ような。どこにも肉薄せず主被写体がわからない。この曖昧さはなに?こんな写真が残るから、写真は撮影者が映る鏡なのだと言われることもあるのか?ある朝、起きて最初に洗面所の鏡の前に立ったときに、鏡に映った自分の悄然として歳を取った顔にびっくりするように、悄然として歳をとった「やつれた男の気分」がここには写ってるんじゃないか?

 えっ?そんなふうではなくてロマンスグレーの、イケオジ気分に見えますよ…と誰かに言ってもらえたら嬉しいですが……(笑)

 ベビーカーを押した若い夫婦はもうすぐ左にフレームアウトしていく。右にはまだ売れ残っている野菜が写っているが、そこを撮ろうとしているわけでもない。写真の真ん中に窓と窓から入る光があり、そのせいで足元のコンクリートの通路が光る。画面全体がマゼンタに転んでいて、これはネット現像を出してる店のフイルムスキャナーの性能の問題だと思う、フォトショですこし直したが、ちょっと全体にリアルにそこで見えていた色とは違う気がする。この色合いのフイルムっぽい感じは実際以上に見ている今と撮ったときのあいだに流れた時間を意識させる。そしてここに立ち尽くして動けないように思える撮影者は、やがてフレーム外に消える夫婦を追いもせずただぼんやりと目の前を撮る……。いやはや、気分が写ってる。