推理小説とワイドレンズ

 3月に撮った写真。これは13年前、2010年の3月に撮った写真。場所は長崎のようです。うーん、なにも覚えていない。前のコマに船が写っていたから、函館だったかな、と思ったりした。コマを進んでチェックしているうちにやっと長崎だとわかった。

 先日、BOOKOFFで買ってきた東野圭吾の「麒麟の翼」という推理小説を読んだ。推理小説という小説は読み始めると読者である私が犯人を推理しはじめ、そのための情報がページが進むたびに増えていくから、情報が欲しい欲しいと思うといつのまにか夢中になって先へ先へと読むことになるという読書吸引力を構造的に有している。だから推理小説が一気呵成に読めることが、イコール良い本とは限らないわけだけれど、最近読書量が減って・・・すなわち気が散りやすい、集中できない・・・それをリハビリというのか修正するにはこうして推理小説を読むのも悪くないんじゃないか、などと書いてみたが何を言っているのだ、かっこつけてるな、とも思う。(麒麟の翼は面白かったですよ)

 高校生の頃に写真部にいて、写真の話を仲間としていると、スランプになったらワイドレンズで町を撮るとよい、するとなんとなくどれもみな写真になっているように思えて、ちょっと自信が回復する、と言われたものだった。読書に行き詰っているときに推理小説を読むのと似ている話だ。それにしても推理小説、推理するのは大抵が犯罪を犯した悪人というか犯人捜しだが、これを反転して善行を無名のまま起こした人物を探し出すような話にしたら、読書吸引力は縮小してしまうのだろうか?やはり人類はその構造として犯人捜しが好きなのかな?それは遺伝子レベルの防御指令のようなことが刺激されるから・・・?小学生の高学年の頃に、シャーロック・ホームズのシリーズをよく読んだ。読んでいる最中は怖くなっていて、夜に暗い廊下の突き当たりにあったトイレへ行くのもどきどきしたものだ。

 今年の1月末にロックバンドのテレヴィジョンのトム・ヴァーレイン逝去のニュースがあった。少し前の(今日ではないです)雨の日に、自室のベッドに寝転がったり、ベッドの上で胡坐をかいたりしながら、上記の東野圭吾の前に読了した佐藤多佳子の青春小説をずっと読んでいた日があった。そのときにSpotifyテレヴィジョンを流した。70年代、このバンドが短いあいだ現役だったころ、レコード屋で高速で棚に入ったレコードを次々に指で送っては、欲しいアルバムを探していると、ときどきこのバンドの「マーキー・ムーン」が現れたものだった。だからアルバムのジャケットデザインはよく知っている。でも聴いたことがなかった。それから50年を経て、こんな遠い日本の片隅で、今ごろになってはじめてテレヴィジョンを聴いてみて、いいなぁいいなぁと感激しているおっさんがここにいます。繊細で詩的な儚さをはらんでいる。

Marquee Moon

Marquee Moon

  • Elektra Records
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