昨日は雨の土曜

 昨日の土曜日(4/8)は、午前は晴れていたが、午後は天気が荒れた。午後3時~4時で東京都美術館で開催しているエゴン・シーレ展の入場予約を前日にしておいた。もう一つ、これも前日の金曜に、土曜午後6時50分から10時20分まで池袋の新文芸坐で開かれる、故ジョナス・メカスとの思い出や彼の生きた跡を訪ねて、メカスの朋友だった詩人吉増剛三がニューヨークを訪ねる旅を中心に記録したドキュメント映画「眩暈」の上映と、上映後のトークショー等の予約もしておいた。実は最後の一席を予約したのが私だった。友人某さんからラインで、もうすぐ売り切れそうだ、という連絡をいただき、満席にはならないだろうから当日行けば大丈夫だろうとたかをくくっていたから、慌てて予約サイトを見たら、一席しか空きがなかった。最前列の一番端っこから一つだけとなりの席でそれを予約したのだった(鑑賞は思った以上に斜めから見上げることになって辛かった)。

 剛三氏が故人を忍びながら、故人についての思いを語っていく。極私的な、長い長い弔辞のように。故人の遺した文章や映像や、暮らした部屋から、そのときどきにあっただろう故人の気持ちに思いを馳せて、朋友を思う。そういう旅が鑑賞者の心にもひたひたと打ち寄せ。するともう80歳を越えた吉増剛造氏の、それでも絶対に譲れない心の新鮮さ(彼はいまも青春にいるような)に打たれ、負けるな!と応援したくなり、同時に憧れた。そして、映画を通して問わず語りに剛三氏が語るメカスのこととメカス以外のいろんなことを、映画を一回見ただけではすぐに忘れてしまうのが悔しいから、もう何回か観てみたくなる。

 メカスとの直接のエピソードではないのだけれど、剛三氏がコンビニのレシートの裏の白紙にいろんなメモを書いては、それをノートに貼っている。それは今後の詩作に反映されたり、あるいは思索の取っ掛かりにするのか?・・・すごく小さな字で書きなぐるように書いてある。その自分のノートのことを「自分で書いたのに読めないこともある」「読めたらそれでもう定まってしまうが、後で読むときにすぐに読めないからまた考えることが出来る」といったようなことを話す場面があって、あぁこの人は今という時間の流れの中で流動的に変化していることを前々からピン止めで固定するのではなく即興で対応することの重要さを、当たり前のこととして伝えてくれている、と思ったものだ。そしてメカスの遺したノートも同じように小さな字でいろんなことが書いてあるのだ。

 帰宅したら日付が変わっていた。上の写真は上野公園。このあと雨が降り始めました。