一日が始まる

 4月5日水曜日のこと。早朝、久しぶりに神奈川県平塚市と大磯町のあいだにある丘陵(標高180メートルの山)の頂上にある公園まで自家用車で上がってみる。公園に続く道は何度か急カーヴを描く桜の並木になっていて、たぶん一週間前には朝早くからたくさんの自家用車が上り下りしたのだろう。桜の花を見ると、半分散って赤い蕊だけになり、残り半分はまだ花を付けているという様子だったが、もう誰も桜を見には来ないようだ。毎日のように見に行く某ブログにそういう頃の桜の花の写真がアップされていて、その写真を眺めながら、日々を留めること、それを示されることの「強さ」のようなことを思った。写真で見る蕊と花が半々の、もう人があまり見上げなくなった桜は、見ないことで思い込んでいるよりも、ずっと美しいものなんだなと思った。

 公園から広く相模湾や相模平野の町を見渡せる。遠くは春霞と言うのだろうか、ぼんやりしている。伊豆大島は目を凝らすとわずかにその形がわかる。日の光がさしてはまた雲に遮られた。相模平野を見ると日の当たる場所と陰っている場所がまだらになっているのがわかる。例えば平塚市の駅より海側いる人は日の光のなかにいて、東海道線より少し北にいる人はいまは日が遮られているんだな、とわかる。当たり前のことだけれど、そういう風に、あっちの人とこっちの人に違いが生まれていることが、気になる。気にしてどうするものでもないのだが。やがて雲が動いてその境界が動く。

 小鳥がたくさん鳴いている。シジュウカラがさっと横切る。ホオジロの声がきれいに響き渡る。江の島の島影は右を向いて沖に進むマッコウクジラみたいだ。こんな江の島を鯨に例えることを聞いたことはないのだが、以前から私にはそう見えた。大小の島々があるところで真夜中に島が動いて集まって遊んで、朝には元の位置に戻るという童話があった気がするのだが、どうだろうか。そんなお話はなかったのだろうか。だってほら、江の島は少し右に進んだじゃないか、と、手前の海面に日が当たり始めたら、そう思えた。あほらしな・・・と自分を笑う。

 海を眺めに来る人がいる。眺めながら体操をしている人もいる。海の表面は一色ではない。海底の状態によるのか、潮の流れのせいなのか、まるで年を経た動物の皮膚のように見えることすらある。私のように気まぐれを起こして年に三回か四回、この場所で海を眺めるのとは違って、きっと毎日日課でここまで来る人もいるのだろう。そういう人が毎日相模湾を広く見まわしているうちに、きっともっと違うなにかに気が付き、なにかを知っているんだろうな。杉本博司は海景を撮った動機として、はるか古代の人も現代に生きるわたしたちもはるか水平線を見渡すこの光景だけは変わっていないはずだ、ということを挙げていた。海の表面の模様からなにかを占うこともあったんだろうか?

 帰路はエンジンブレーキを効かせながら坂を降りる。下のバス通りはちょうど通勤時間帯になって車の数が増え、バス停留所にも列が出来ていた。一日が始まる。

 下の写真は展望台に上がる階段です。