梅雨空続く

 昨晩、会社の懇親会があった。そこで聞いた話。毎朝早く、会社に出勤する前に50分のジョギングをしているAさんは、ジョギングしている最中に、次々に仕事関連で、あれをやるべき、ここを炙り出そう、そのために、誰それにやってもらおう、などなど、たくさんのことが浮かぶとおっしゃる。ジョギングをするという身体を動かしてる最中にこそ、思考も活性化するのだそうだ。そういうもんだろうか?すぐには納得できず、そうかなぁ?と考えていたら、今度はBさんが、彼の場合はジョギングではなくウォーキングなのだが、毎朝家から会社まで約50分かけて歩いていて、そのときが一番、仕事の進め方などに関するアイデアが浮かぶんだ、とAさんに同意するようにおっしゃった。50分が共通だった。

 懇親会が終わり、帰宅してから、こんなことを考えていた。梅雨の小雨が降ったり曇りがちのある一日のなかに、一瞬だけ、日がさすとする。その一瞬の日は、朝からずっと晴れているときよりも、一段と明るく感じる、ということを。本当は、朝から晴れている日の光と、一瞬だけ晴れたときの光が、ともに同じような光の強さと熱を持っていたんだとしても、それはその直前が曇っていて、その直後にもまた曇った、そういう隙間にある一瞬の晴れ間の方が、比較する曇りの暗さがあるからか、晴れの光をより一層明るく感じる、そういうことなのだろう。だから、明るさをルクスで、肌に感じる熱を℃で測ればどちらも変わらない、むしろ、雲ひとつない晴れの一日のほうが、曇りの隙間に差した日差しより、こういう数値が高いのに、人の感じ方は、一瞬の晴れ間の方が明るく暑いんじゃないか・・・と思う。というか、そう望む気持ちがある。

 前半に書いた、自動的にいつもの道筋を辿るジョギングやウォーキングにおいての思考の豊かさの話と、後半の梅雨の晴れ間の日の明るさの話には、なんの関係もないです。ただ前半の話を思い出しながら、帰宅後のシャワーを浴びてドライヤーをしているときに、思い出した話の続きとして、この後半の日の光のことを考えたから、自分としてはなんだかとても繋がったふたつの話のように思えるのだ。

 シャワーを浴びてドライヤーをかけて……という一連の動作が日常の当たり前の行動で、シャワーやドライヤーの操作方法も、すべ「いつものこと」と知っているから、オートマチックな行動。だからこそ急に日の光の感じ方についてこんなことを、当たり前のことかもしれないけど、考えたのだろう。

 するとAさんのジョギングやBさんのウォーキングも、習慣化し日常のオートマチックな行動になっている。「オートマチックに日常の行動をしている最中」ということが、会社のことでもそれ以外でも、計画等々を考ることの条件なんだろう。

 散歩をしながら思索を重ねたと言う場合の散歩は、何度もそこを繰り返して歩いた日常の散歩というのが条件、なんじゃないかな。

 梅雨空続きますね。ご自愛ください。