季節を見ている

 季節を見ているのはいつなんだ?自家用車を運転して、カーナビ装置の指示に従って目的地に向かう。カーナビは実は最適な道を選んでいないことも知っている(先日自宅に帰宅する際にわざわざ渋滞している方に迂回しろと指示をしたからびっくりした。しかもそれに従ってみたら見事に渋滞にはまりました)が、初めての場所だとそれに従うしかない。最近は くるり の「愛の太陽EP」を運転中に繰り返し流している。音量を上げて、窓を閉めて、ナビ通りにオートマチックに、前の車に適度な車間距離で穏やかに走る。さすがに三回か四回聴いたところで音楽を停止し、赤信号で停まったときに窓を開けてみると、思った以上に外の風は暖かく、思った以上に街の騒音が聞こえてくる。それは車のエンジンやタイヤの音が主だが、そのなかに鳥の声が混じる。するとさっきまでの閉じられた車内の空間は、当たり前だけど外からは区切られていたことに気が付く。夏休みのプール遊びに例えると、プールに入って遊び、プールから出て休む、中にいて遊び疲れて上がろうと思うとき、休んでからまた中に入ろうと立ち上がるとき、その行動の境界のようなことがウインドウの上げ下げで起きる。閉じて音楽を聴くのも、開けて街の音と鳥の音を聞くのも、どちらもそっちへ移動したときに楽しさがある。

 運転しているとフロントガラスはいつもあって、目の前の光景はガラス越しに見ている。順光では十分に透明でも、逆光になると薄く汚れが膜を張るように付いているのがわかる。フロントガラス越しの光景はカーナビに従って運転することで次々に更新されて目に入って来る。そんなときにときどき、ちょっと目を瞠る光景に出会うこともある。たとえばどこか桜を目指して行かずとも、右折したりカーヴしたり左折した先に桜並木が見えるとき。それで、もしかすると、こういう風にして見る季節が、いちばんリアルに季節を見ているときなのではないか?と思う。夏には百日紅の並木を通る、秋には紅葉したユリノキの並木を通る、冬には葉を落として日の光が明るく通って来るなにかの並木がある。その主人公は、ここではいま「並木」と書いたけれど、並木を含む植物がわかりやすいが、空や雲の高さや、風にそよぐ葉や枝の動きや、影の濃さなど、言葉にしなくてもずっと刷り込まれているいろんなところに感じているんだろう。

 だから季節を見るのは、右往左往して混雑した観光地に行くときだけじゃない。日々のなかで、例えばこうして車を運転して眼の前に現れる光景を見て、駅のホームのベンチに座って次の電車を待つときに目の前を滑空していく燕を見て・・・・日常の中にこそに見ている。その瞬間に敏感でいたい(くるり が「東京」で歌っている「季節に敏感でいたい」という歌詞はこういうことなのかな・・・)。

 この写真は後方に車が来ていないことを確認してから路肩に停車して撮りました。一番右に自転車の人がシルエットで写っている。こういう配置はけっこう気にする・・・