写真の構図

 ひと月ほど前、7月の中旬に桜木町駅付近(横浜市)で撮ってあった写真です。写真の右隅の真ん中より上に、銀色に緑の線が入った電車が走っているのが写っています。JR東日本京浜東北線の電車です。その手前のコンクリートの脚に支えられた高架線は東京急行東横線が走っていた線路の跡地です。いまはこの横浜以西なのか以南なのか・・・その範囲の東横線みなとみらい線に名を変えて、桜木町ではなくみなとみらいや元町中華街といった新しい観光地をつなぐ路線に変わりました。この廃線となった東横線の高架のうえはほんの短い範囲だけ人が歩けるようになっています。写真を撮っているときに自分が立っているこちら側の歩道をそのままとぼとぼと・・・別に「とぼとぼ」ではなくてもいいのですけどね・・・先へと歩いて行くと、紅葉坂の交差点があり、そこを左折して坂を上ると前川國男の設計したモダニズム建築の青少年センターや旧図書館や神奈川県立音楽堂が建ち並ぶエリアがあります。でも左折しないで真っ直ぐ歩いて行くと、もういまはたぶんないと思いますが、1990年代にコニカのカメラの修理受付をしているビルがあって、若干光線漏れする中古で買ったコニカプレスを持って行ったことがありましたね。その一回きりで、この道沿いにほかになにか用事があったことはないな。いまJR京浜東北線の車窓からこの通り沿いを見ていると、もう会社の入っているようなビルはほとんどなくて、ずーっとマンションばっかり。さて、こういう殺風景なありふれた街を写真に撮る、撮りたくなる、のはどうしてなのか?そして矛盾なのは、殺風景を撮りたいとかなんとか・・・それでカメラを構えるわけだけれど、いざシャッターを押すときは、こんな風に電車が走っているところだったり、あるいは右側の軽のバンと左奥の青いワーゲン(かな?)のハッチバック車の位置を見定めて構図的に安定するようなところだったり、そういう構図を意識している。いつも思うのは殺風景を撮りたいけど、その殺風景のなかで構図がうまく落ち着くような既存の価値を基準にしてシャッターを押している。なんかそういうところに矛盾というのか媚びている感じもあって、殺風景を撮る人が構図を気にしているのは矛盾じゃないか?とも思うわけです。グーグルストリートビュー自動撮影カメラのことを、こういうことを考え始めると必ず思い浮かべる。かのカメラは完全自動撮影で構図など気にしていない。だから本当の殺風景を本当の欲のないように撮っている。

 だけど、そういうなかにも結果として決定的瞬間が写っているようです。そういう場面を選んでいく人がいるようですが、これはそこまで完全に意図のない、決定的瞬間に縛られない写真を撮っているのに、それなのに、決定的瞬間が写ることもある。なるほどとにかく数を撮りさえすればなにかが始まる、だから数を撮るのが大前提だ、というのもそういうことかもしれないな。グーグルストリートビューから決定的瞬間を探し出す人というのは、殺風景で意思のない大量画像のなかから偶然的に入り込んでいる決定的瞬間を見つけだす作業だから、考古学者がなにかの化石を探したりするような感じがします。