ゲリラ的豪雨の海水浴場

 若い頃、これほど猛暑日がなかったころの夏には、自分もずいぶんと若くて、夏のあいだに、いろんな友人知人との楽しい出来事が起きて、そのときは「思い出のためではなく、今のためだ!」と言っていたけれど、結果として何十年と過ぎると夏の「思い出」となっている。もういつまでも夏が終わらなければいいのにと、気分は「終わらない夏」でいたいとカッコつけて思っていた。誰かの打ったホームランボールはそれでも放物線を描いて地上に落ちて来るけれど、ボールがいつまでも落ちて来ずにそのまま宇宙空間までまっしぐらに伸び続ける、そういうのが私の心のなかで思い描いていた「終わらない夏」だった。青臭いことです・・・

 少し前、これは8月上旬ですが、少し前の写真を見直していたら、材木座海岸を見下ろす、よくむかしの湘南を舞台にした青春映画でこの下り坂から海へ至るというカットが使われていた場所で、渋滞ノロノロになり、そのときゲリラ豪雨的なものすごい雨が降っていたので撮った写真があった。これはまだひとつき経っていないのに、あぁもうずいぶん前のようだ。最近はせいぜい三か月くらいまえの写真を見て、もう三か月も経ったのか!と驚き、その三か月前をあの頃はよかったな、と思ったりもするから、時間が早く過ぎる感じがする。時間が早く過ぎるのか遅く過ぎるのかは、なにを主語にしてどう話すかによって同じ事例でも、どっちにも言えたりする気もするが。

 写真は写真がなければ忘れていたに違いないことも思い出させてくれるから、単純にそれがいいところですね。

 ちょっと考えた。エピソード記憶に残る10のことが、幼児期は一日で起きる、少年期は一週間で起きる、ハイティーンから二十台前半には半月で起きて、その期間がどんどん長くなる。五十台六十台になると感受性と記憶力のふたつの関数(笑)がどんどん変化して、一年か五年かを要してしまう・・・というか記憶力次第ではもう十のエピソード記憶は残せる能力がなくなる。このエピソード記憶の発生頻度で時間が早く過ぎるか遅く過ぎるか、のような感覚に差が生じているのかな?ということ。これを考えていたけど、勉強をしていないだけで、もうとっくに皆さんは気付いたり学んだりしていたことかもしれません(恥)。

 海水浴客は海水には自分の意志で濡れることを承知で入るけれど、大雨となると、雨宿りをするようです。