真夏が過ぎゆくことへの焦燥

 写真は9年前の7月下旬、鎌倉由比ヶ浜の夕方。この写真を見ていて思ったのは、夏という季節を構成しているひとつひとつの夏の日があって、その夏の日は朝も昼も夜も夏真っ盛りで、どこにもほかの季節の侵入を許していないようでいて、唯一、この写真の時刻、これは4時か5時か・・・その時刻になると、どんなに典型的な真夏の一日でも、そこだけには晩夏がしまい込んであるんじゃないか、というようなことだった。この写真は7月の写真だけどそれがデータとして画像ファイルにくっついていなければ、晩夏かな?と思うんじゃないか。

 二十代前半の頃、本当の真夏の真っ盛りに、名古屋から実家のある湘南に帰省していた、その「帰省していて」×「真夏である」の集合は十日ほどしかなかったとして、そのひとつひとつの日に必ずなんらかのモニュメントたる楽しい出来事が起きますように、そこには必ず友だちがいることが必要と思って、約束をどんどん入れたし、そのひとつひとつの日を忘れないようにと、しょっちゅう、一日目はだれそれと会ってどこにいってこんなエピソードに出会った・・・というのを、一日目、二日目、三日目・・・・と忘れないように何度も思い出し、忘れていないことを確認して、過ごしていた。あの頃の夏、私の気持ちは一体どういうふうだったのだろう。ゆく夏が惜しくて惜しくて、だから毎日毎日を必ず充実しようとして、それが空回りして、無理をして、焦っていたんじゃないか。そして、どんな真夏の一日にでも夕方だけは(上記のように)晩夏の時刻(あるいは晩夏のような気分に襲われる時刻)が来る、その時刻になると、いい時間だと思いつつも、一人が怖く、いつまでもこの時刻に浸っていたいと思う一方で、さっきまでの猛暑の時刻に戻りたいと思った。いつだって自分勝手で矛盾だらけだった。そして夏を自分はどう(その時点の定義で)有意義に過ごしたかにこだわっていた。

 いまもその後遺症か、そのときの癖なのか、夏が過ぎて行くのは悲しくて嫌だな。もっと夏が続くと良いと思う。秋になんかなるな、と思う。そのくせ秋になれば秋になったで、秋はいいなあ・・・と言っているに違いないのだが。だけど同じく真夏の一日をどう過ごすかを考えたときに、若い頃のように、そこには友だちが必須で約束があることが大事で記念となるエピソードを作りたい、などとは思っていない。もっとゆったりとしたのんびりとした何もしないような時間に憧れてしまう。そして結局はそういう時間が欲しいから、焦る。焦るところは若い頃と同じで、人間としてどうなの?と思う。

 すなわちこの気分は「行く夏を惜しむ」ということだろうか。そういう定型の言い方があるくらいだから、むかしからずっと、誰もがここにだらだら書いたようなことを思うことがあるかもしれないです。